3.弓と言う名の剣


 凛と張り詰めた空気が肌を刺す。だが、この清廉された空気は、カノンは嫌いではなかった。ギリっと弦を引き、矢束を引き切った時でも引き続ける様に張り続け、引き分けた状態を数秒保つ。
 真っ直ぐに的の中心に向かって矢を放つ。風を切るように飛んで行く矢を見つめながら、弦を離すと同時に勢い良く右手を振ると、両腕が大の字になる。的の中心を射た矢を見つめながら、カノンはしばし弓を射た体制のままそこを見つめていた。
「大分距離が飛ぶようになって来ましたね」
 後ろで見ていた第一位階の騎士であるジェルド・ゼル・メイクが彼女に声をかける。彼は剣ではフェイルに劣り、槍ではヴァイエルに劣ると言っているが、騎士団きっての弓の名手であると自負している。
 カノンの誘拐事件の折、彼女が放った短刀がルーベの助けになったと聞いた彼は自ら進んでルーベとカノンに進言したのだ。これは、カノンにとって願ってもみない話であった。剣は重くて自在に振るえない。ましてや、剣の三倍は腕力を必要とするといわれている槍などもってのほかである。
 しかし、だからと言って武器を何も扱えないのは由々しき事態である。いっそ短刀投げを極めようかと薄っすら考えていたカノンにとって、『弓』という『剣』に変わる武器を習得できるのであれば、これ以上の事はない。
 当初、あまりいい顔をしなかったルーベであるが、再三のカノンの『お願い』に屈し、『必ずジェルドの指導の下に修練をすること。決して一人でやらないこと』を条件に、ようやく近衛の修練場の片隅での弓の訓練を許可したのである。
 紺瑠璃色の瞳が柔かく目を細めるのをみて、カノンも肩の力を抜いて体制を元に戻した。
「そうですね。初めの頃に比べたら」
「精度を保ちながら、これだけの距離を半年で射抜けるようになるとは思っておりませんでした。さすがはカノン様だ」
 春に弓を始めて今は冬。当初、それこそ弓を引く状態に身体を持って行くことさえ容易なことではなかったカノンだが、今では真っ直ぐに弓も飛ぶようになった。距離も徐々に伸び、今では四十カインの射程距離ならばまず間違いなく中心に中るほどである。
 普通、一般兵士であってもこれほどの上達力は稀である。これも、カノンの人並みはずれた集中力の成せる業と言える。彼女は一度集中するとどれほど周りが喧騒としていても、耳に入らなくなる。ただ真っ直ぐに眼前の的を見据え、それ以外のものが彼女の世界から消える。
 集中力を欠けば、どのような物事でさえ成果は出ない。逆に、集中力があれば実力は飛躍的に伸びると言っても過言ではない。
「人並みはずれた集中力、これも天賦の才ですね」
「そんな! 私にそんな大それた物はありませんよ。ジェルド様のご指導があってのことです。本当にありがとうございます」

 ふるふると首を横に振るカノンに、ジェルドは笑みを深める。本来、カノンの年齢なら身を着飾り、木陰で同じ年ごろの少女たちと共に談笑を楽しむ物だと彼は思っている。野蛮だ、と貴族の夫人は彼女の行動を笑うかもしれないが、彼は全く思わない。
「本来ならばご婦人は、我等騎士の外套の後ろにいてくださればよろしいのに……。最近のご婦人方は勇ましくていらっしゃる。ですが……」
 これは彼なりの彼女への褒め言葉だった。言葉を紡ぎながら彼はそっと、カノンの弓を引いていた指を取り、その美しい桜色の爪に口付ける。
「カノン様のこの美しい指に傷が一つでもついたら、世界の損失ですよ」
「ジェ、シェルド様っ」
 咄嗟に手を引こうと身を捩るカノンに、彼は悪戯な笑みを浮かべてみせ、彼女の不安を煽る。
「あまり戯れがすぎると、団長の不興を被るはめになるぞ、ジェイ」
「気配を感じさせずに背後に立つとは、趣味が悪いんじゃないかフェル」
「女性に無理強いを働こうとする悪漢を成敗するのも、騎士の役目なんだろう?」
「全くを持ってその通り。……どこにそんな悪漢が?」
  ジェルドはゆっくりとカノンの手を離した。あくまで『悪戯』の範疇であり、彼は本気ではない。ないにしても、カノンにとって、この世界のスキンシップはそう簡単に慣れるものではないのである。
「こ、こんにちはアース卿」
「ごきげんようカノン様。どうぞ私の事は気安くフェイルと呼んで下さい」
 浅梔子色をした絹のような短髪がさらりと揺れ、深緋色の瞳は穏やかに微笑む。一見すればジェルドと同じ年齢かそれ以下にさえ見えがちであるが、実際彼の年齢はルーベよりも上である。そんな彼に物怖じ一つすることなく、フェイルは言った。
「そうは簡単にことは運ばないぞフェル。カノン様が私の事を名で呼んでくださるまで一月懸ったんだからな」
 二人が穏やかに笑いながら会話を交わしていた。ディライトであるフェイルと貴族の嫡男であるジェルドは騎士団に入隊したのが同期である。なので、この二人は第一位階の騎士の中でも格段に仲が良い。背中を預けられる戦友というのは、命で結ばれた絆があるのだな、と二人の姿を見ていたカノンは思う。
「それにしても、カノン様の弓は上達の一途ですね。教え手が悪くても生徒が優秀であれば、実力が発揮できるのでしょうか?」
「教師の腕も良く、生徒も優秀であるからこその結果だと、どうして考えないんだい?」
「……ああ、万が一の確率にも低い可能性だから見落としていたよ」
「状況を正しく判断できなければ、戦場にいざ出たとき命取りになるぞ? 友よ」
「いつも正論を言わない奴に正論を言われることがこんなに腹正しいこととは思わなかった。勉強になった。礼を言おう友よ」
「背を預け戦える物同士、切磋琢磨しあえるとは素晴らしいことだ。君の成長を喜ばしく思う」
 二人の言葉の言い合いを聞いていたカノンは、身体から力を抜きクスクスと笑った。それに気がついた二人も、彼女と同じく笑ってみせた。
「よろしければ、休憩でもしませんか? この寒い中ずっと射っていたのでは、手が壊れてしまうでしょう? 暖かいお茶と菓子を用意させますので」
「でも……」
「ちょうどいいではありませんか。鍛錬と同じ時間、休むことも必要です。彼の言葉に甘えましょう?」
 渋るカノンにジェルドが優しく声をかける。この時点で、二対一、カノンに勝機はない。彼女は白いため息を小さく吐き出した。
「ではカノン様、お召しかえを」
 ジェルドが恭しく頭を下げると、カノンはさらに苦笑する。
「今日はこれで終わりですか?」
「言ったでしょう? 鍛錬と同じ時間、休むことも必要だ、と。先達者の言うことは聞くものです」
 有無を言わせない言葉でそういわれてしまえば、カノンとて従わざるを得ない。弓を持ってそのまま彼女はペコリと頭を下げる。
「では、着替えてまいります」
「はい、いってらっしゃいませ」
 そう言うと、彼女は踵を返した。彼女の足音が二人の耳に完全に届かなくなるまで、彼らは沈黙を保っていた。
「……何時間射続けていたんだ?」
「ざっと三時間は経過してる」
「三時間……」
「あれほどの逸材なら、我が弓兵隊に欲しいぐらいだ」
 極寒、とは言わないまでも寒い季節外で何本も何本も射続ければ、集中力が途切れてもおかしくはない。普通に、どんなに長く続いても人の集中力など二時間程度。それも長く続いてという言葉を欠かすことが出来ない。しかし、カノンはどこか身体の機能が壊れているのではないかと言うぐらいの集中力を見せている。
 それに加え、彼女は一度言ったことを決して忘れない。例えば、助言。例えば注意。体の能力がついていかないこと以外、すべて彼女はほぼ一回で理解し、実行してみせているのだ。どれだけ努力をしても手に入らない『才』を彼女は有していることに、ジェルドにしてもフェイルにしても驚愕を隠し切れない。
「世界の全てが、まるで団長に味方しているようだね」
 ジェルドは呟くように唇に、言葉を乗せた。


 廊下の曲がり角から出てくる人物と正面からぶつかってしまいそうになってしまった。しかし、それも相手のほうがカノンを支えてくれるという形で、彼女は床と激突するという事態は避けられた。
「も、申し訳ありません。お怪我はありませ……っ」
 抱きとめられた体を起こして、彼女は助けてくれた人物を見上げ絶句した。思わず、謝罪をすることを忘れ相手を見やる。彼女と今、対峙している人物は金色の長い髪を一本結び。碧色の双眸を持つ男だった。
「エデル、様」
「お怪我は?」
「あ、ありません。申し訳ありませんエデル様。私の不注意で……。お怪我は?」
「ありません」
リファーレの屋敷での出来事以来半年、カノンはこの修練場に何度か足を踏み入れていたものの、一度も彼と会うことはなかった。 ジェルドやフェイルとは違い完全に、皇帝派である彼は心を許してはいけない相手と、方々から言われていたカノンは僅かに鼓動が早まるのを感じた。
 ルーベが叛旗を翻そうとしている皇帝の忠臣と彼女は聞き及んでいるのだが、あの屋敷で彼と接した時、それほど恐怖を彼から感じなかった。カノンは、どうしても彼が周囲の人間が言うほど悪い人間に思えずにいる。
 声が震えないように気をつけながら、彼女は彼を見上げて言った。
「……あの時お怪我はなさいませんでしたか?」
「私の愚弟の様子を見たでしょう。あれが結果です」
 あの屋敷での戦いで、彼の弟であるシオンは肩口を貫かれ、他諸々の傷からの出血もあり三日間昏睡状態に陥ってしまったのだ。それでも肩の傷は身体の大事な筋を一切傷つけることなく、骨と筋の隙間を刺したといっても過言ではない傷であった。
 それは、それだけのことをする余裕がまだエデルにあったということに他ならない。目覚めて、唇を噛み締めていた姿が彼女の脳裏にもはっきりと残っていた。投げかける話題を間違えたと感じた彼女は、再び彼に問う。
「……ロザリアはお元気ですか?」
「……恙無く過ごしていますよ」
一拍間を置いてからの返答に、カノンは再び会話を繋げることが出来なかった。向き合ったまま二人が沈黙していると、今度はエデルのほうが口を開いた。
「よく、団長が貴女をここへ通わせることを許しましたね」
 まさか彼のほうから会話をしようとしてくれるとは思わなかったカノンは、すぐに言葉を紡ぎだすことが出来なかったが、それでも『エデルが話しかけてくれたこと』が嬉しくて唇を動かした。
「あ、それは私が酷い我侭を言って通わせて頂いているんです。お屋敷にいても、私役に立てないので」
 彼女は自分で言っていて少し虚しくなる。自分の口から発した事実でも、時として自分の心を抉ることを知っていても、本当に真実であるから仕方がない。
「それで、ここへ?」
「……少しでも、力が欲しいんです。あの時、私はあまりにも無力すぎましたから」
 あの時の無力感は、今での彼女の心を責める。怪我をさせてしまったこと、危険な場面に遭遇させてしまったこと。これもすべて、自身に少しでも力があれば回避できた事態かもしれない、とカノンは思っているのだ。
 勿論、職業軍人にはどう足掻いても勝つことは出来ないだろう。しかし逃げるとなったら話は別ではないかとカノンは考えているのだ。目下の目標は、敵の手に落ちても自力で脱出出来るようになることである。
「夜は、眠れていますか?」
「え?」
 カノンはニ、三度目瞬きしたあと、ハッと彼の意図していることに気がついて赤面する。よもや人前であんなに取り乱してしまうと思っていなかった彼女にとって、あの姿は醜態以外の何物でもなかった。
「あ、はい! あの時はみっともない所を見せてしまって。お恥ずかしい限りです」
 冷えた両手で、赤くなったしまった両頬をカノンは包んだ。今思い出しても顔から火が出る思いである。そして同時に思う。やはり彼は、悪い人ではない、と。本当に根の悪い人間であるなら、こんな会話をしない。命令とはいえ、屋敷でこんな小娘の相手はしない、とカノンは半ば確信に似た何かを持っていた。
 そもそも、ルーベと敵対している理由が彼女にはわからなかった。皇帝側ではなく、ルーベ側に来てくれれば心強いのにとさえ思っている。それを思い切って問おうか問わないか悩んでいた時、そっと彼女の肩に誰かの手が触れた。
「あまり時間が懸っているようなので、お迎えにあがりましたよカノン様」
 彼女の肩に触れた手は、ジェルドだった。笑顔のまま、カノンを覗き込むような素振りを見せたあと、ゆっくりとエデルを見つめる。
「……ごきげんよう、フェルマータ卿。今日はまたどのようなご用件でこちらに?」
「第一位階の騎士が、この修練場を自由に出入り出来ないとは聞いたことがないが?」
「いえ、あまりに貴方がここに来ることが珍しいので、驚いてしまっただけですよ。気分を悪くしてしまったらもうしわけない」
 エデルとジェルドの双眸が交錯し、一瞬火花が散ったようにさえ彼女は見えた。しかしそれは敵意の炎と言うより、もっと根底にある暗く冷たい何かのように思えて、思わずカノンの背筋に冷たい何かが走る。
 エデルが彼らを避けて先に進もうとした所、進路にフェイルが立ちはだかった。
「まだ何か?」
「卿はどこにいかれるんですか?」
「卿に何か関係あるのか? 修練場の出入りは自由とされている。卿に言う必要があるとは思えないが」
「……そうですね。失礼致しました」
 後ろに立つジェルドと、カノンの真横に立つフェイル。双璧に守られるようにしている彼女は、僅かな隙間から去っていく金色の髪を視界の端に捉えた。彼女は彼のことが決して嫌いではなかった。それどころか、むしろ好意さえ抱いているのだから。
 しかし、今そのことをこの二人に告げてはいけないと思い、唇に彼を庇う言葉は乗せない。乗せられない。
「ご無事ですか?」
「はい。というか、少しお話しをしていただけなので、何も……」
「気をつけてください。フェルマータ卿は皇帝陛下の忠臣。いつカノン様に何をしてくるかわかりません」
 カノンは二人のほうに振り返って、それは違うと反論をしようとしたのだが、それも失敗に終わる。
「カノン様が怪我をなされては、皆心配しますし、何より団長の雷が私たちに落ちますから。なるべく危険因子との接触は控えてくださいませ」
 ジェルドが心配そうな表情でそう言うと、隣にいるフェイルが言った。
「お咎めを受ける? それは私も?」
「当然だろう、この場にいるのは貴殿と私。二人懸りで守れなかったというほうが心象が悪いだろう」
「あまり私を巻き込んでくれるなよ、ジェイ」
「ならば何にでも首を突っ込む悪癖をどうにかしたほうがいいぞ、フェル」
 こんな二人の会話を頭上で聞きながら、いつの日か彼も、ルーベ側の人間になってくれないか、と真剣にカノンは思った。


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