9.変動

 
 カノンがこの屋敷に幽閉されてから一週間。日が沈み、夜になれば月が昇る。今宵は満月。あの日、窓から見上げた月が満ちる頃には、ルーベが助けに来てくれるのではないかと他力本願極まりないことを思っていたカノンは小さくため息を付いた。
 淡い桃色の肩の出ている長いドレスを着て、髪を結い上げ垂れているカノンは窓際で空を見上げていた。琥珀色の双眸は、昼と夜が混ざったような美しい色を捕らえる。月の満ち欠けが一度繰り返された頃には、自分はこの屋敷を出られているのだろうか。それどころか、生きているのだろうか。漠然とした不安に襲われるのは、希望に似た太陽の光が弱まっているからだろうか、とカノンは自分の思考に浅く自嘲した。
「どうしたのカノン?」
「いえ、別に」
 同じ部屋に居るロザリアが声をかけると、彼女は弱弱しく笑って答えてみせた。本当は別に、など言っている余裕なんて彼女になかった。だが、ここで駄目だと口にしては本当に駄目になってしまいそうだと感じているため口にはしない。表情のさえないカノンの横顔を見つめていたロザリアは浅く笑う。そして、紅がはっきりと塗られた唇を動かした。
「大丈夫よ」
 ロザリアは自らの赤丹色艶やかな髪を細く長い、大よそ軍人とは思えないような指先で遊びながら彼女のほうを見ないで声をかけた。
「きっと、カノンが望むとおりになるから」
 その言葉の真意ははかりしれない。今まで一度も『大丈夫』などという言葉を使ったことがないロザリアが、発した言葉。カノンがどういう意味であるのかを問おうとした時、部屋の扉が叩かれた。一拍間を置いてから現われたのはいつもの侍女たちである。食事の準備が出来んだ、と思っていると彼女たちはいつもと同じ言葉を紡ぎださなかった。
「お嬢様、シルフィール様お夕食の準備が整いました」
 ここまでは、ロザリアにしても、カノンにしても耳慣れた台詞であった。しかし、続けられた言葉は彼女たち、否、カノンを驚愕させたのだった。
「主が部屋へと申しております。本日はそちらへ」
 この時、ロザリアが浅く笑ったことにカノンは気がついていなかった。侍女たちに事情を聞くよりも先に、部屋に入ってきた彼女たちに手を引かれカノンは部屋を連れて行かれる。そんな彼女の後姿をロザリアは笑顔で手を振って見送った。
 主を失った部屋に残るのは静寂のみである。カノンがつれられていく足音まで遠のくと、シンと静まり返った部屋しか残らない。そんな中、肌触りの良い椅子に高々と足を組んで座ったまま彼女はただクスクスと笑い続けていた。
「良かったわね、カノン。王子様が迎えに来てくれることになって」
 長い爪の伸びた指先が、自らの唇に触れる。紡ぎだされた声色の響きはどこか冷たいものだった。

 リファーレの部屋に通されたカノンはただ沈黙を守っていた。何を言われるか、何をされるかわからない。まな板の上の鯉といっても唯々諾々と相手のいいようにはされたくない、というのが彼女の心理である。
 応接用の机であろうか、部屋の中央にずしりと存在感を醸し出している机の上に豪華な料理が乗っていた。
「お久し振りですね。こちらも中々忙しくて屋敷に戻れない日が多くて……、何か不自由なことはありませんでしたか?」
 それはまるで鳥籠に飼っている小鳥に話しかけるような口調だった。甘く甘い言葉が背筋を這い上がる感覚に、一瞬で彼女の身体には嫌悪感で鳥肌が刻まれる。ルーベとはあまりにも違う声質に、カノンはいっそ生理的な吐き気にさえ襲われている感じがしていた。
「……このお屋敷から逃れられないことを除いたら、格段苦痛なんてありません」
 何とか彼女が笑顔で言うと、彼も穏やかな表情のままカノンを席に座るように促して見せた。一瞬、彼の表情か普段の余裕が欠けているように見えたカノンであったが、そのような精神を彼が持ち合わせているはずがないと思いなおし、促されるまま席に腰をかけた。
 食卓といえどぬくもりはなく、会話も当然あるはずがない。普段、というよりもここ数日ロザリアとエデルと共に摂っていた食事は普通に美味しい、とカノンにとって言うことが出来る食事であった。食べる場所と食べる人間が違うだけなのにもかかわらず、カノンの食欲はわかない。申し訳程度に料理を口に運んでも、まるで味もしない。向かい合わせで座らせられ、そこで会話をするわけでもなくただ時間を過ごすことはカノンにとって苦痛以外の何物でもない。
 食べる時に生じる必要最低限の音しか響かない空間は彼女に息苦しさしか与えなかった。彼が陶器に入った酒を飲み干した時、彼の瞳は料理からカノンへと映った。
「……ひとつ、取引をしませんか?」
 カタンと机の上に器を置くと、リファーレは酒に濡れた唇を動かした。
「貴女をルーベ様のもとへお返ししましょう」
「え!?」
 突拍子のない言葉に、当然カノンは驚きを隠せない。そんな彼女に彼は優しく、柔かく微笑みかけた。
「貴女が条件を飲んでくだされば、今、すぐにでも」
 ニッコリと笑った彼の言葉には裏がないわけがない。
「その条件とは?」
 彼女が恐る恐る問うと、彼は笑みを絶やさず答えた。
「簡単なことですよ。貴女がルーベ様のもとへ戻られたら、彼の行動を私に、ひいては皇帝陛下にお伝えしてくだされば良いだけです」
 一瞬室内に会話は消失した。
「……それを正気で言っていらっしゃるんですか?」
「正気ですとも」
 そういうと、彼は自ら杯に酒を注ぎいれて喉を潤した。
「悪い話ではないと思うのですが、いかかですか?」
 リファーレは邪気のない笑みを浮かべてカノンに問う。それはまるで否と言う答えが来るとはまるで思っていない笑みであった。その笑顔に、カノンの背筋が凍りつく。ここで彼の言葉を拒絶すれば、どうなるか。脳の片隅で逃げろ、と警鐘が鳴るが逃げ場所なんてない。
 カノンは息を飲むと、声が震えないよう最大限の努力をして声を出した。
「急なお話ですね」
「そうでしょうか? でも、悪い話ではないでしょう? ルーベ様の元に帰ることが出来るのですから」
「でもそれはルーベ様に対する裏切りになります」
 真っ直ぐにカノンに返されたリファーレは楽しそうに喉で笑った。
「貴女に、そんな正論をお言いになる余裕があるとは思いませんでしたよ」
 不気味な戦慄がカノンの背筋を這い上がっていった。
「今、ここで、どうこうされるよりも、従順に我々に従っていたほうがいいのでは、と提案してるんですよ?」
「提案と言うよりも、まるで強制のように聞こえますが?」
 リファーレはクスっと笑うがそれ以上のことは口にしなかった。緊迫した、張り詰めた空気がカノンの肌を刺激した。純粋に、痛い、と彼女は思った。もう食事どころではない。膝の上のドレスを握り締めた手が、力を込めすぎて白く冷たくなっていた。
 ここで拒絶をすれば、恐らく命はないだろう。読めない笑顔の向こう側に、その意識だけはカノンでも読み取れた。言葉に出来ない死への恐怖に即断で屈してしまったとしても、きっとルーベたちは責めはしないと彼女は思った。けれど、それは決して出来ないことである。
 カノンは喉が無駄に渇いて、一瞬声を出すことが出来なかった。上手く音が刻みだせず、口を開いてすぐに閉じるという動作を数度繰り返した。そして、意を決したように唇を動かしたのだ。
「……お断りいたします」
 その答えを聞いた彼は、少しだけ意外そうな表情を浮かべた。それは、彼女の目にとてもわざとらしく見えたが、それを指摘し論議できるほどの思考回路は持ち合わせていない。
「それは、貴女の身がどうなってもよい、と理解してもよろしいのでしょうか?」
 リファーレの紫紺色の双眸が鉛のように冷たく光ったが、カノンはその瞳に臆することなく彼を真っ直ぐに見つめた。そうとってくれても構わない、と唇が音を刻もうとした時、扉が静かに叩かれた。一度、二度。立ち去る気配のないその音に、僅かに苛立ちの音を秘められていた。
「誰です。食事の席ですよ」
 扉越しに彼が声をかえる。
「大変申し訳ありませんリファーレ卿」
「ああ、フェルマータ卿。どうしましたか」
 不意の来訪者の声で、カノンにとって緊迫している雰囲気が払拭される。ようやく呼吸が出来たと思ったカノンは、思わず手を心臓の辺りに持ってきていた。冷たい手が胸元に触れ、ようやく頭も冷えてきたように思えていた。
「不穏な侵入者の気配があります」
 その言葉で再び緊張感が室内に静かに広がっていく。エデルのリファーレにとっての嫌な連絡は、カノンにとっては喜ばしいものであった。不穏な侵入者、それは彼に敵対するもの以外に他ならない。……その意味が分からないほど、彼女は愚かではない。今までの青ざめた表情が嘘のように、彼女の顔に明るさが帯びていく。
「ルーベ様……っ」
 小さいけれど、万感の思いを込められて紡がれた言葉が、リファーレの耳に届いてしまった。彼は眉間に皺を寄せるが唇の笑みを崩さない。
「ハハっ、とうとう重い腰を上げたようですね、王弟殿下も!!」
 やや声を荒げたリファーレはおもむろに立ち上がる。そして、座っているカノンの白く細い手首を掴むと強引に立ち上がらせた。そして、そのまま彼女の手を引いていく。多少その強引な力にカノンが表情を歪めても彼はお構いなしである。
 そして乱暴に部屋の扉を開けると、目の前にエデルが無表情で立っていた。その彼の目の前を彼女の手を引きながら足早に通過して言ったリファーレだが、一瞬歩みを止めた。そして、振り返りもせず言葉を放った。
「お客人を丁重にお相手して差し上げてください」
「御意」
 そういうと、リファーレは再び早足で歩き始めた。エデルも、その背中を見送ると踵を返した。
「エデル様!!」
 後ろを振り向きながら彼の名をカノンは叫んだが、彼は振りかえることはなかった。


 エデルとしては、彼が次にどのような行動に出るのか判然としていなかった。このままカノンをつれて逃げるのか、それとも彼女を別の所に幽閉して悠々とルーベの相手をして見せるのか。
 いずれにせよ、第一の衝突というものは避けることは出来ない。
「エーデル」
 まるで歌うように嬉々とした声で紡がれた音。それを発したのは、ロザリアである。下ろしていた髪を簡単に一本にまとめ、彼女があまり好んでいない騎士服に身を包んでいるのである。腰にはおざなり程度に剣も下がっているため、彼女の戦いに対する態度もある感じられる。
 嬉しそうに彼の隣に現われた彼女はクスクス笑う。
「団長とシャーリル、レヴィアース卿にシオン坊や。少数精鋭ってことかしらね」
 彼の耳に馴染んでいる名前が挙げれていく。ある意味、予想通りの人間たちであった。
「戦いにくい? だったら、シオン坊やのお相手、私がしてあげようか?」
 楽しそうに笑う彼女を一瞥もせずにエデルは唇を動かす。
「いや、あれの相手はオレがする。お前以外に、シャーリルを抑える人間は居ないだろう」
「そうね、久しぶりにレイターと戦うわ。でも正直アイツとは戦いたくないのよ」
 ロザリアの淡く化粧の施された顔に翳りが生まれた。レイターの中でも最強と誉れも高い、フィアラート家の血を引くシャーリルを相手にする、ということは同じレイターとしてもそれ相応の覚悟が必要なのである。
「荷が重いか?」
 エデルが視線をずらしてロザリアを見た。彼の碧色の瞳と、彼女の瑪瑙の色をした瞳が交錯する。ロザリアが首を少し傾げると金色に輝く耳飾が涼やかな音を立てた。
「いいえ、貴方がそばにいてくれるなら私は皇帝陛下でも殺しに行くわ」
 エデルが望むなら、四玉の王さえ手にかけてくると豪語する彼女の双眸には本気の色が映っていた。その眼光に射抜かれたエデルは小さく口元に笑みをつくり、そのまま彼女のことを抱き寄せ、果実のように艶やかな光を放つ唇に己の唇を重ねた。
 本来ならば寝台の上で獣に噛み付かれてるような錯覚を起こすような、軽い眩暈さえ引き起こす激しい口付けのはずなのに、彼がしたのはただ唇を押し付けるだけ、以上にただ触れるだけのもの。
 しかし、それだけでもロザリアは恍惚とした表情に変わる。
「任せた」
「ええ、任せて」
 ロザリアが、自分の言うことに従順に従うということはエデルも知っていた。この行為はまるで彼女の気持ちを利用しているようなもので、彼としては好かない。しかし、状況が状況である。
「行くぞ」
 エデルが声をかけると彼女は無言で頷いた。
 ……すべては自分の信念のために。


BACKMENUNEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送