10.懐かしい旋律


 それから一週間後、まだミリアディアは本調子ではなく、ルーベはそれ以降仕事に忙しく追われていた。そのせいで、カノンは広い屋敷の広い部屋で一日を過ごすか、広い庭園で花を見るか、賄いどころへ行って料理をさせてもらうか、それぐらいのことしか出来なくなっていた。
 カノンは豪奢な長椅子に寝そべるように座りながら、掃除に精を出すルイーゼの後姿を見ていた。給仕服に身を包み、肩よりも少し長いぐらいの髪を一つにまとめて頭上で結っている。動き易そうな格好である。
 ふと自分の姿を思ってみて見ると、今日着ているドレスは甘い果実のような柔らかな淡い黄色、裾はふわりと広がっていて立てば地面に着くか着かないかぐらいの長さがある。胸元には細かい刺繍がなされており、ところどころに宝石の欠片が散りばめており、窓から刺す陽光にあたり光っていた。肩に少し袖があるだけで、ほとんど袖なしと言ってもいいぐらいのものであるが、まだ春だと言う室内はこの格好でも過ごし易い温度である。
 ここに着てから同じドレスを二度着た事の無いカノンは、申し訳なくなって一度ルーベに直訴したのだが、彼がそれを却下とする前に、ミリアディアの相手から反論を寸分も許さない口ぶりに、彼女は完敗してしまったのだ。見れば見るほど高級そうなドレスである。
 髪一つとってもそうである。朝ルイーゼが起こしに来て、そのまま身支度を整えるのを手伝ってくれる。髪を丹念に梳かすと、それを丹念に結い上げる。午後にはそれをもう一度施し、その次は食事の前。ともすれば、自分ですることは何もなくなってしまうと言う事態には、やはりカノンは慣れていなかった。
「退屈そうでいらっしゃいますね、お嬢様」
「……そんなことないですよ」
「そうは仰っても、やはりどこか手持ち無沙汰のようでございますよ」
 部屋の掃除をするルイーゼは、『これは私の仕事ですので』と言って、決してカノンに掃除をさせるような真似はさせない。広い部屋の掃除を丸一日かけて行えば、手持ち無沙汰な気分もなくなるだろうに、と内心思っていたカノンは苦笑するしかない。
「傷のお加減は?」
「傷って言っても……。かすり傷ですし、もう全然」
 そういってカノンは自らの腕をぐるぐると回してみせる。その様子を見てルイーゼは笑った。
「それはようございました」
 屋敷にルーベと共に帰ってきたとき、それはそれは騒ぎになったのだ。ルイーゼたち侍女一向は、主であるルーベに無礼承知でカノンを奪うように連れ去り、そのまま身体を清め、消毒をしてみせた。こうなる事を予想していたとしか言いようの無いぐらいの手際のよさで、このときもカノンは一切口出しをすることが出来なかったのだ。否、出来る体力も残っていなかったのだが。
 その後泥のように丸一日眠り、そしてさらに月日は流れ今。上げ膳据え膳の状態で過ごせば、誰でも傷は回復する頃合である。それどころか傷自体は、その日の内にルーベが治癒しているから、外傷として残っている所などなかったのだ。
 大切にされていることはカノンも嬉しいが、これは最早過保護の域を超えている、と常々思っていた。
「お暇なのでしたら、お掃除が終わりましたら、楽師でも呼びましょうか? それとも甘い菓子でもお持ちいたしますか?」
 せっせと手を動かしながら、ルイーゼはカノンに聞く。
「……ルイーゼの掃除が終わるまで、考えます」
「畏まりました」
 ここで二人の会話は一瞬途切れた。カノンは時間があれば、この世界の言葉を学んでいたのだ。会話はなぜか通じるのだが、使っている文字は現代の物とはやはり違う。最初のうちは、新しい言語を覚えるという作業が出来ていたのだが、一度見聞きすればカノンはそれを余程のことが無い限り忘れない。
 一秒に一個のことを記憶する行為を、人間の寿命である八十年間続けていっても、人間の記憶力はまだまだ情報を記憶できる力があるといわれている。カノンの脳はその脳に限りなく近い構造をしている。その為、一度覚えたら忘れない。
 だからこそ、言語の勉強は一時やってみせればそれで事足りてしまうのだ。今度時間のある時にでも、神官のグレスリィが古語の読み方を教えてくれると言うからありがたい話である。
「……あ」
「どうなさいましたお嬢様」
 ルイーゼが手を休めてカノンの方を振り返る。
「あ、いえ。……あの、私の鞄ありますか?」
「カバン? ああ、はい、ございます。少々お待ちくださいませ」
 そう言うが早いか、ルイーゼはすぐにカノンの革鞄を持ってきた。この世界にやってきた時持ってきたものを懐かしそうに持ち上げるカノンの口元が緩む。
 中には、生徒手帳と筆箱、ルーズリーフにスケジュール帳、充電の切れた携帯電話、そして……。クリアファイルに挟んであったのは、何種類かの楽譜だった。譜面を目で追って、また彼女は微笑んだ。
「お嬢様?」
「……ああ、この楽譜は……。私の母の作った曲なんですよ」
 そう、この楽譜は歌手として世界を飛び回っているカノンの母が自ら作詞し、作曲をした曲だった。本当はあの日、あの黒衣の男にあった日に、学校の先輩に見せると約束していた楽譜だった。
「お嬢様の母上様が……」
 カノンの生い立ちを、むしろカノンが異世界から召喚された伝説の『鍵』ということを知る者は少ない。無論、ルイーゼとて、その事実を知らない。だが、子が生まれるためには親が必要であり、カノンも例外ではないということぐらいは分かるので、彼女は微笑んで見せた。
 カノンはニ三度譜面を追うと、おもむろに唇を動かした。





「そっと瞳を閉じて 時を刻む音に耳を傾けるの
 進む音は永遠に聞こえて 一人で聞くのが辛くなる
 時計の針は巻き戻らない 後悔は胸に残ったまま消えなくて
 それでも後悔さえ 甘い痛みになっていく
 これは私と貴方の絆だから」


 旋律は、宙を舞った。


「長い夜を 一人で過ごし
 朝が溜め息と共に訪れるのなら きっとすぐに光と出会えたでしょう
 別れの言葉を告げないまま お願いだから 一人にしないで
 それは届かない願いでは ないはずだから
 今 開かれた 扉の向こうが霞む」


 歌が思い出を紡いでいくような気がしていた。この曲は、確かにカノンの生みの親である母親が口にしていた旋律なのだ。母の歌声を思い出しながら、記憶の声と自分の声を重ねていく。それは、あるいは日本で過ごしていた日々が夢ではなく、幻ではないものであるという確信を胸に抱かせるための作業だったのかもしれない。


「綺麗な歌……」
 彼女の声は人を惹き込んだ。思わず呟いたルイーゼの声で、はっとしたカノンは白い肌に朱を走らせる。
「凄いですよ、お嬢様!! これなら祭りの歌い手になれるぐらいっ!!」
 ルイーゼは興奮した面持ちでカノンに言った。
「ええ?! む、無理ですよ! それにこの歌は母が作った原文を、私が勝手に日本語に直してしまっただで……!」
 そう、彼女の母は世界を飛び回って歌を歌っているのである。その土地に合わせた歌詞で歌うのが礼儀と、カノンの母親は主要な国の言葉であれば習得しているのだ。何もそこまでと子供の頃のカノンは思ったほどであるが、今はその母の行動は誇りにさえ感じている。
 母が日本で歌を歌うことは滅多に無く、数少なく歌ってもらった子守唄は全て外国の言葉だった。親の歌う歌の歌詞を知りたくて、必死に辞書と教科書を駆使したのも、今ではいい思い出である。
「そんなことありませんよ! ああ、ご主人様にもお聞かせしたいっ。こんなに素晴らしい歌が聴けるなんて!!」
 陶酔しているような表情を浮かべたまま、ルイーゼは掃除も忘れてカノンに言う。彼女が歌声を褒められたのは、これが初めてではなかった。元の世界にいた頃は、合唱の中でもソロパートをまかされたこともある。なので、歌には少しだけ自信もあるが、逆にこれほど褒められた事はなかったので、恐縮してしまう。
「お嬢様!」
 ルイーゼは長椅子に座っているカノンの前までくると、両膝を折って地面に付き、ひしと彼女の手を取った。
「また、ルイーゼに歌をお聞かせくださいませ。わたくし、いたく感動いたしました!」
「ええ」
「約束ですよ!」
 ルイーゼはそういうと再び立ち上がって、失礼いたしましたと苦笑しながら掃除を始めた。
 カノンも少し困ったように笑いながら、彼女の後姿を見つめた。どこか懐かしさを感じてしまって、彼女は笑っているのだ。




 陽宮学園には多くの桜の木が植えられていた。入学式の日、少しだけ早く登校した花音は人気がまばらな事をいい事に、一本の桜の木に近づいて、青い空から降ってくる桃色の花びらの雨を受けていた。そこで自然に紡がれた歌。その時何を唇に乗せたのかは、珍しく覚えていない。
『この子は人?』
『人ね』
『これで桜の精だったら、面白かったのに』
 声のするほうを振り返れば、そこには三人の女性が立っていた。同じ制服に身を包んだ三人。
『先に名を名乗れなんて、無粋な事は言わないわ。私の名前は天城ひばり、三年よ』
『同じく、鷹山かずは』
『あたしは東雲かおり。あたしたち三人、陽宮学園女子高等学校の生徒会メンバーだよん」
 桜の雨が降り注ぐ中、彼女たちが現れた事に、花音は驚きを隠せなかった。陽宮は生徒の自主性に飛んでいる学校である。基本的な教育は一貫校特有の教育方針で、高校からは中学までの厳しさはなんだったんだというぐらいに。
 故に、生徒会の力は学校内では絶対の存在なのだ。それは花音も知っているところだった。
『今、歌っていたのは貴女?』
『……はい』
 そう答えると、彼女たちは満足げに微笑んだ。
『いい歌声だったわ』
 あの時、そういって微笑んで、手を差し伸べてくれた先輩方にであったおかげで、学校生活が異様に花々しさを増した。歌は人を引き寄せる、と母に言われたが、それが真実だと知ることになる出来事だった。
『貴女の名前は?』
『桜木、花音です』
 ドクドクと脈打つ心臓の辺りに手を当てて、もう片方の手を彼女の手の平に重ねた。
『かのん? どういう字を書くの?』
『花の音で、かのんです』
『それで花音。いい響きだこと!』
 そういって笑った三人の笑顔。
『じゃぁ花音。私の生徒会へいらっしゃい』
『え?』
『そうそう。こーんな可愛い子だったら大賛成大歓迎』
『最初は遊びに来るだけでいいからさ!』
 他の二人も微笑んで花音を見てくれた。差し伸べられたてのぬくもりを、彼女は放したくなかった。例え平安ならざる学校生活になったとしても、この三人と共に時間を過ごせるなら、構わないと彼女は思ったのだ。
 



 そう言って微笑んでくれた彼女たちに頼まれ、渡すはずだったのが、カノンが目を通した楽譜だった。
「お嬢様、お眠りになるのでしたら寝台へ。お風邪を召してしまいますよ」
 クスクスと笑うルイーゼの鈴の鳴るような音を聞いて、カノンは目を開けた。カノンの部屋にある長椅子は、彼女一人ぐらいが横たわって寝るには充分の大きさはある。いつの間にか手すりに寄りかかって寝てしまったようだった。床には楽譜が散らばってしまっている。ニ三度目を擦り、辺りを見回し状況を把握すると彼女は慌てて落ちた楽譜を拾い集めた。
「もう一度お眠りになりますか? それともお茶でもお持ちいたしましょうか?」
 掃除用具を手際よく片付けながら、ルイーゼが問うと楽譜を拾いきったカノンはお茶を彼女に頼んだ。
「では、少々お待ちくださいませ」
 そういうと彼女は一度掃除用具を置き、茶菓子を持ってくるために部屋を出た。扉の閉まる音が室内に響く。それに打ち消されたのは彼女の溜め息だった。
「ひばり先輩たち……、やっぱり心配してくださってるかな」
 呟いた声に、返って来る答えは当然無かった。でも、あるいは彼女たちなら声が届くような、そんな錯覚をカノンは持っていた。しかしそれは錯覚に過ぎない。隔絶された二つの世界、飢えた美しき荒野と機械仕掛けの沃野、その差は果てしなく遠く、だが手を伸ばせばすぐに届きそうなそんな距離にカノンは思えていた。
 『会いたい』、とは思うけれど、それでもカノンは思う。自分には、果たしたい目的がある、と彼女は切に思った。優しく強い次の王となる人の、役に立てるのなら、故郷を捨ててもかまないというほどに、その思いは強くなっていた。


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