8.眠れる君に捧ぐ声


 東の空が白み始めた。騒々しい虚宴は終わりを告げ、今のところ世界には静寂しかなかった。そろそろ屋敷の侍女や侍従たち起きだす頃合である。
 それでも、ルーベはカノンの寝台の側に置かれている椅子に座り、そこから微動だにせず、眠り続ける少女を見つめていた。
 屋敷に帰ってすぐは、彼女の表情は青ざめたままだった。侍女たちに手を引かれ、すぐに湯を使わせた。落ち着いただろうかと思った頃にルーベが彼女の部屋に行くと、すでに彼女は夢の世界へと旅立っていた。
 顔色も随分よくなっており、そして、彼が近づいても目覚めないぐらい疲弊していたのかと思うと、やはり彼の心も痛む。窓から僅かに入る光を背に浴びながら、ルーベは溜め息をついた。
 足音を立てずに、人が近寄ってくる気配がした。そうやって近づいてくる人間は限られているし、今なお神経を研ぎ澄ませているルーベに、今現在感知できないものの方が少ない。
 扉を叩くごく小さな音が室内に響き渡る。
「入って」
「失礼します」
 入ってきたのはシャーリルで、一礼をしてから室内に足を踏み入れた。
「カノンは?」
「よく寝てる。あれからずっと」
「そ、良かったね」
「………良かったのかな」
 どこか暗い影の落ちているルーベの顔を見ながら、シャーリルはゆっくりと彼に近づいた。彼は一度自分の屋敷に戻り、血に汚れた服を着替え見苦しくない程度に整えてきたのだ。しかし、ルーベは恐らくあの夜会のままの姿だろう。服のあちこちに付着した血が乾いて黒く変色してしまっている。
 手近にあった椅子を彼の隣に引いて、シャーリルも座った。会場にいたときよりは顔色の良い少女の寝顔を見つめて安堵の息をつく。
「彼女、怪我してたんだって?」
「ああ、でも本当にかすり傷だったから。治癒が効くかどうかわからなかったけど、あれぐらいの傷だったら塞げるらしい」
「……それがわかっただけでも良かったじゃないか」
 異世界からやってきた人間に術は通じない。これは皇祖帝に仕えた少年のことで証明され、文献も残っていた。なので、ルーベがかける治癒の力も効かないかも知れないと危惧していたが、ゆっくりとではあるものの、傷は塞がった。悪意のある、彼女を傷つけようとする力でなければ、彼女の身体は受け入れてくれるらしい。
 しかし、これ以上の怪我をしていたら、治癒の力は効いたのだろうか? ルーベはらしくなく、そんな仮定で不安に思っていた。眉間に皺を寄せたままの表情でカノンを見つめている彼に、シャーリルは声をかけた。
「ミディが気に病んでた」
「彼女が気に病む必要は無いだろう。むしろこっちがいくら感謝しても足りないぐらいだ」
 顔を上げたルーベは多少驚いたような表情でシャーリルに言った。彼の妻であるミリアディアは、しっかりとカノンを守っていてくれた。立場上、彼女だけを守ることが出来ないルーベの代わりに。女性だというのに、自らの肌を曝け出し、傷を負った彼女が気に止む必要がない。ルーベからいわせれば、自分がいくら感謝してもし足りないぐらいである。
「夫人の具合は?」
「平気。ただ傷が多くて出血が多かったから、血が足りていないようだった」
 だから寝かしつけてきた、とシャーリルは言外に語る。
「よく養生してくれと、伝えておいてくれ」
「ああ。彼女が寝付くまでしばらく一緒にいたから遅くなった」
「気にするな。オレが全部終わってからこっちに来いっていったんだから」
「甘い奴だなお前は。特に女子供に」
「そうか?」
「そうだよ、昔からな」
 そういって二人は浅く笑った。
「お前は?」
「無傷に決まってるだろう、僕今回ほとんど戦闘に参加してないし」
「そっか」
 そういうと、また室内に沈黙が降り注いだ。一秒が一時間とも思える長い長い沈黙だけが空間を支配していた。そんな中、その静謐を破るきっかけとなったのは、少女の寝返りにより生まれた小さな布の擦れる音だった。
 小さな溜め息をついたルーベが言葉を発した。それは意を決したような声だった。
「……エデルがいた」
「ミディから聞いた」
「そっか……」
「僕も会った」
「……そっか」
 ルーベはまた沈黙してしまった。言うべき言葉を捜しているようには、シャーリルには見えなかった。長い間一緒にいるわけではない。
「お前アイツに何を言われた?」
 シャーリルがそういうと、ルーベは信じられないものを見るように彼の瑠璃色の瞳を見つめた。子供頃から変わらない輝きを誇る瞳を讃える友人を、目を細めながら言う。
「僕とお前は、何年一緒にいると思ってるんだ?」
 彼の表情の穏やかさは、恐らく無意識であろう。彼のその優しさに、ルーベはいつも助けられているのだ。彼は一度深呼吸をし、長い長い息を吐き出した後言葉を紡いだ。

「お前に守りきれるかって」

 シャーリルは僅かにその柳眉を歪めた。予想できる範囲の、安っぽい言葉ではあるが、それはルーベにとっては重要極まる言葉だったのだ。彼は組んだ手に額を乗せて、沈んだ声で続ける。
「あの時、カノンの側にいたのはオレじゃなくて、アイツとミディ夫人だった」
「……お前は騎士団長だ。あそこでやるべきことは、皇帝の身の安全の確保、貴族の身を守ること。私的な理由を殺して、それを全うしなければならない」
「わかってる! わかってるけど!!」
 ルーベは語調と強め、それはまるで自分を怒鳴りつけるような声だった。


 あの時、一瞬、二人の距離が縮まった時、エデルは声には出さず魔力で彼に言葉を伝えた。
「オレはいつでもあの少女を攫う事も、その命を奪うこともが出来た」
 その声はあまりに冷たく、ルーベは思わず絶句してしまったが、その後圧倒的な怒りがこみ上げてくる。射殺せそうな視線で彼を睨みつけるが、やはり碧色の瞳は揺るがず、再び声を紡いだ。
「今は、その命は受けていない」
「……受けていたら、お前は彼女を連れて行くのか? 命令があれば、殺すことも厭わないというんだな。」
「ああ、シャーリルの妻を殺してでもな」
 そんなことはさせない、と言い切れるほど、今のルーベに力は無かった。次の言葉を探している最中、エデルの鋭い言葉は続く。
「……お前は、彼女を守りきれるのか?」
「なっ」
「お前に守りきれるのか? 彼女もまた、パルティエータのように守りきれないんじゃないのか」
 この言葉は、そう遠くはない過去の深淵は、ルーベから全ての行動を奪った。


「……そういってアイツは行った」
 一時的な感情麻痺に襲われたルーベが動けず、反論さえも見出せないうちに、エデルは彼の前から姿を消した。
「……で、お前は何て言った?」
 シャーリルがそういうと、彼は怒られた子供のような表情を浮かべながら、人の聴覚に届くか届くないか程度の声で言った。
「何も、言えなかった」
「馬鹿じゃないのかお前」
「……何か、改めて思った」
 ゆっくりと、顔を上げたルーベの顔はどこか迷いが消えているようにシャーリルの瞳に映った。
「オレ、弱いなって」
 ポツリと呟かれた言葉。それは現実の、今の姿だった。だが、それは『今』であり、この先このままでいるということはありえない、と言う意志が彼から伝わってくる口調でルーベは言った。
「全部守れるぐらい強くなる」
 瞳の輝きは彼の魂の壮烈さを表しているように、薄暗い室内でもはっきりと輝いていた。強い意志の現れであり、それは新たな時代への風だった。流れの無い、淀み始めたこの帝国を一掃する強く優しい風。
「カノンにもう怪我させないぐらい。それで、兄貴を玉座から叩き落すぐらい」
 眠れる獅子は今目覚めた。今、ルーベの姿を見た人はそう形容するだろう。目覚めの咆哮は耳に心地よい響きがある。
「兄貴見て思った。強いけど、オレはああはなりたくない」
 シャーリルは無言で彼の独白を、まるで自分に言い聞かせているかのような言葉を聞き続けた。
「兄貴みたいな力はいらない。でも、カノンと国を守れるぐらい、オレ強くなる。そうじゃなかったら、カノンに申し訳なくてしょうがねぇよ」
「お前がそうやって決めたなら、それを貫き通せばいい」
 ふと、言葉が途切れた時、シャーリルがその艶やかな口唇を開いた。
「何があったって、僕ぐらいは最後までついてってやるよ」
 だからお前は周りを見ないで前だけ見てろ。暗にそう言うシャーリルに頭を叩かれたルーベはどこか嬉しそうだった。
「……ありがとう」
 彼の笑顔は変わらない、そうシャーリルは改めて思った。初めてであったあの日、誓いを交わしたあの日、あれからもう十年以上の月日が流れたが、それでも彼の根本的なところは何一つ変わっていない。そんな彼だからこそ、彼のためにと動く事が出来るのだろう。
 それを思った彼は瑠璃色の瞳を細めた。
「お前に着いて行くって決めた、まぁ随分若いうちに人生棒に振った気はするがな」
「ひっで」
 こうやって笑いあえる時間は、長くはないかもしれない。
「……お前ちょっと寝て来い」
 窓から零れる太陽の光を浴びたルーベの顔を見て、彼は言った。珍しく、彼の顔には疲れが見えていた。シャーリルは軽く彼の頭を小突くが、ルーベは頭を横に振る。
「いや、今寝ると多分起きれないから、このままでいい」
「……ルイーゼが来るぞ」
「居たって構わないだろう。何もしてないんだし」
 何もしないことにも微妙に問題がある、とうことはシャーリルはあえて言及はせずにいた。この歳でまだ妻の一人も娶っていないルーベに、男して欠陥があるのかと危惧した事もなきにしもあらずだが、最近の彼を見ているとその心配もなさそうである。
「でも、お前軽く寝とけ。もたないぞ、多分今日は招集がかかるだろうし」
「面倒臭ぇ」
「言うな。仕事だ」
 ごしごしと目を擦るルーベは、体から緊張感が取れたのかいささか眠たそうな表情を見せた。それでも眠るまいとしている雰囲気は伝わってくるのだが、それもどうやら限界が近づいているようだった。己の欲求に忠実なルーベには、徹夜ということばが存在しない。
「シャル、悪い、肩貸して」
 辛うじて、まだ地面と身体を平行に保っている友人の姿を見て、シャーリルの口からは呆れの溜め息しか出てこない。
「ヤダって言っても乗りかかってくるくせに」
「……駄目か?」
 こうなると、もう大人と子供の会話である。
「駄目って言っても来るだろう。いいよ、別に」
「ありがと、ルイーゼ来たら起こして」
「ああ」
 シャーリルの肩に、ルーベの頭が乗った。赤茶けた髪が首に当った、若干くすぐったいが、もうすでに寝息を立てている彼に文句を投げつける訳にもいかず、しばらくの間辛抱するかという思考に達する。
 健やかに眠る彼と、そして異世界からやってきた少女、二人を見てシャーリルは思う。
「せめて、必要以上に彼らが傷つかないように……」
 呟いた言葉は、静かな部屋に、静かに霧散した。そう考える事さえ甘いのかもしれない。皇祖帝の覇業の手助けにこの国にやってきた『鍵』がどれだけ過酷な運命にあったか、というのは過去の文献、そしてフィアラート家に伝わっている。
 それでも、シャーリルは四玉の王へと祈ってしまうのであった。

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