10.作法

「では、カノン様。もう一度」
「はい」
 ルーベがカノンに告げたのは、近いうちに晩餐会が王宮で開いてやると言う旨であった。そう、ルーベはこの国の王弟である。その人物が婚約者を、未来の伴侶を得たと言うならば、お披露目しなければならない。
 遅かれ早かれこうなる事は予感していたが、それにしても兄の動きが早すぎる、とルーベたちは漏らした。しかしぼやいた所で状況は好転などせず、当然時は待ってはくれない。
 ルーベはある信頼の置ける人物に彼女に徹底して作法を学ばせることにしたのだ。勉学のほうはいくらでもなり手が居る。適任者が見つからなければ、自分でも見てやれるが、女性の作法ともなると話は別であるからである。手を打ってすでにもう三週間経過している。晩餐会までは後一週間。
 元々、礼儀に五月蝿い女子校に通っていたので基礎は出来ている。それを示すように、特訓が始まって二日目にして、カノンは必要な知識のほとんど飲み込んでいた。
「初めまして、ルーベ様の婚約者としてお側にいさせて頂くことになりました、カノン・ルイーダ・シェインディアと申します。まだ礼節もわきまえない無作法者ですが、力の限り尽くす所存でございますので、この至らぬ身にお力添えをお願い申し上げます」
 スカートの裾を持ち上げ、丁寧に頭を下げる。貴婦人の礼の基本であり、王弟の伴侶になるものとしての最低限の言葉である。現在カノンが身に着けているのは、貴族から見ればドレス、と称するにはあまりにも簡素なものであるが、彼女からしてみれば、テーマパークの貸衣装を着込んで記念写真を撮るときぐらいしか着る機会のないようなドレスを着込んでいるのである。
 淡い薄い赤く染められた絹織りであろう良質のドレスに、ミュールやパンプスよりも華奢な造りをされている靴。本番ではもっと豪奢なものになると言う。その言葉は彼女にとって途方もない話に聞こえたが、どうにも紛れもない事実らしく、いち早くこの格好に慣れるのと、この世界の婦女子の礼儀を学ぶ為に短い期間ではあるが、教わったことを己の身に焼き付けていくのであった。
 最初の頃千鳥足のような足取りで、しどろもどろという口調であったカノンも数度も繰り返せば板についてくる。三日も経てば張りぼて感も払拭され、『大貴族の令嬢』らしさが出てくるものである。先ほどの台詞を目の前で聞いていた夫人はパチパチと手を合わせてカノンを見つめた。
「素晴らしいです、カノン様。これで皇帝陛下と直接顔をあわせてしまっても大丈夫ですね」
「ええ、これもフィアラート夫人のおかげです。ありがとうございます」
 穏やかに微笑む女性の笑顔に、顔を上げて直ぐにぶつかったカノンは思わず顔を赤らめて、頭を下げると夫人はクスクスと笑った。
「でも、カノン様、わたくしのことはミディと気安く呼んで下さって結構ですのに……」
「ですが、私の先生でいらっしゃいますし、何より……」
 カノンの部屋で連日行われている婦人としての礼儀作法を教えてくれる彼女の名はミリアディア・フィアラート。今年二十四になるこの婦人は、あのレイター・シャーリル・フィアラートの奥方なのだ。背中の中ほどまで紅茶色の鮮やかな髪を伸ばし、それよりもさらに濃く深い色の瞳にはいつも優しい光が宿っている。
 しかし、女性らしい丸みのある身体ではあるが、あるべきところに必要な分だけ肉が付いている他は、一切無駄のない身体つきを彼女はしていた。その身を包む明るすぎない若草色の清楚なドレスは彼女の美しさを引き立てていた。とても一児の母には思えない容貌だった。
 彼女は、大人の女性である自分と緊張の面持ちで過ごすのも大変だろうと、色々気を使ってくれていた。それはカノンにも感じる事が出来、それでまた恐縮してしまうのだが、時間の経過がそれを緩和させていく。そうすると同性と言う事もあり、打ち解けるには時間はかからなかった。しかし、如何せん年齢差がある。故に、カノンにも譲れない第一線が発動してしまっているのだ。
「まぁ、そんな寂しいことを仰らないで、カノン様。ルーベ様と主人が一緒にいることが多いのです、わたくしたちも会う機会が増えると思いません? そうなるとわたくしたちだって、懇意にしていても何も問題はありませんわよ?」
「いえ、その通りですが……」
 確かに、身近に侍女と呼ばれるルイーゼたち以外では初めて女性にであったのだ。懇意になるのは否ではない。しかし……。
「慣れないこともおありでしょうし。わたくしを姉と思ってくれて構いませんよ」
「そんな!」
「……ああ、確かに姉と言うには年が離れて……」
「いえ! 違います。ただ、私なんかが夫人を姉と思ってはご迷惑がかかって……」
 会話が成立しているようで、成立していないと言う奇妙な違和感を感じながら、年上の貴婦人との会話を続けていく。とうとう本音が垣間見えると、ミリアディアがふわりと笑ってカノンの手をとった。
「そんなこと気にしないでくれて構わないわ。折角こんな可愛らしいお嬢さんとお近づきになれたんですもの」
「ミリアディア様」
「ミディ、と呼んで下さって?」
 変わらない笑顔を顔に称えて、手を取り合った二人の心の距離は既に埋まりつつあった。
「では、せめてこの場では私の事もどうかカノンとお呼び下さい」 
「では、カノン」
「……お姉様っ」
 琴の音のように涼やかな声で、彼女の名前を囁いたミリアディアに、感極まったカノンはひしと抱きついた。それをとがめも拒みもせず、二人はお互いの身を寄せたのであった。それとほぼ同時に、彼女の部屋の扉が叩かれ、ルイーゼの声が聞こえてきた。
「カノン様、シャーリル様がおいでになりました」
「あ、お通しして下さい」
「畏まりました」
 一拍間を置いて扉が開け放たれ、精錬された美貌を誇るレイターが姿を現した。そして、抱き合ってる美女二人を見て眉間に皺を寄せて無言で見つめていた。それはまるで第一声の言葉を捜しているようにも思えた。
「……で? 君たちは一体何をやってるんだい?」
「何って交友を深めていただけですよ。ねぇカノン?」
「ええ、お姉様」
 やっと話した第一声を同じような甘やかな笑みを浮べて微笑んでいる女性二人の姿を見て、シャーリルは溜め息をついた。所詮男は女に適わないように出来ているのだろうか、と彼は思いつつ会話を続けようと試みた。
「僕らもう少し仕事で遅くなるから」
「畏まりました。頑張って下さいませ」
「ああ」
 それだけ言うとシャーリルは踵を返した。手にはかなりの量の書類を有しており、彼と恐らくルーベの仕事の量を物語っている。
「もうお行きになるのですか?」
 せめてお茶の一杯ぐらい飲んでいる時間ぐらいあるだろうに、とカノンが思い切って声をかけてみるものの、彼は首を横に振る。
「ルーベが待ってるからね。じゃぁ、失礼する」
「いってらっしゃいませ」
 優雅に頭を下げたミリアディアを一瞥した後、浅く笑みを浮べて直ぐに彼は部屋を後にした。彼がこの部屋から遠のいていく足音が廊下に響き、そして徐々に消えていく。ミリアディアは彼の去った後を彼女はしばらくじっと見つめ続けていた。
「ミディ様?」
「あら、ごめんなさいカノン。何でもないわ」
 一瞬、遥か彼方を、虚空を見つめていたミリアディアを思わず呼ぶ。儚げな表情でシャーリルの後姿を見つめて送っていた彼女であったが、カノンは心配気に彼女の表情を見つめた。そんな彼女の不躾な視線を甘受して、苦笑しつつも言葉を選びながら彼女は薔薇色に彩られた口唇を動かして音を紡いだ。
「……わたくし、ルーベ様を大切に思っているシャル様を愛しく思っているの」
「はい……え?」
「だから、わたくしはあの方のあの姿が一番好きよ」
 それは憂いを秘めた美しい笑みを浮べて、自らの夫に対する愛を語った。しかしなぜ、愛を語る顔は幸せよりも悲しみをより強く映しているのだろうか。
「なのに、どうしてかしらね? 時々ルーベ様を羨ましく思ってしまうの」
「それは……」
 それは当然だ、と言う言葉をカノンは口にすることが出来なかった。それは彼に対する同情や、哀れみの感情ではなく、ただ彼女の浮べた憂いを帯びた笑顔に圧倒されて言葉が出なかったのだ。そうなった少女に満足して、ミリアディアは言葉を続けた。
「私とルーベ様が危険な目にあっていたとするでしょう? そうしたら彼は先私を助けて、決して危害が及ばない所まで連れてきてくれたら出来うる限りの力を持ってルーベ様の元へと去っていくわ」
 それはなぜだと思う? と彼女の瞳は暗に問う。最初にルーベを助けず女性を助けるのは、恐らく彼女よりルーベの方が強いから。彼女を助けている間、ルーベはひとりでも大体の戦況を乗り越える事が出来る、彼女を避難させた後にルーベの元へ帰って手を貸せば事足りる事の方が多い。
 今でこそ、人妻として生活しているものの、元神聖騎士団の戦士であったミリアディアとて、決して彼らのお荷物にはならない程度の腕を今でも誇っているのであるが、方を並べて戦えることが出来るか否かと聞かれたら否、と答えるより他ない。それをシャーリルも理解しているからこその行動であろう。選択としては何一つ間違ってはいない。
「多分、夫はこの大陸の誰よりもルーベ様を大切に思っている。そして私を愛して下さっている」
 彼女の紡ぐ言葉はきっとこの大陸に住まう住人の誰もが知っている事実であろう。歌の旋律のように発せられる言葉には決して悲しみではなく、幸せが滲み出ていた。
「それが、私の愛したレイター・シャーリル・フィアラート様よ。そうじゃないシャル様なんて、シャル様じゃないわ」
 ミリアディアはそれを誇らしげに語った。誰かを愛している姿を愛してしまった、それを人によっては悲しい事だ、辛いことだと同情するかもしれない。しかし、その姿を見て一生を過ごせるなんて、何と幸せなことだろうかと思う人間もいるのだ。例えはじめは心のないものだとして、時が立つに連れて思いを育んでいくのである。
 結果彼は彼女を愛し、彼女も彼を愛している。人の数だけ愛し方があり、この二人にとっては彼らの主であるルーベを中心に世界が構成されていることもあり、今の関係を上手く保ち続けていられるのである。共にあり、すれ違う苦しさより、離れていても互いを慈しみ思える幸せをミリアディアは噛み締めているのだ。 
 戦いの中で生きる喜びを見出し、戦友と分かち合い、主と四玉の王への思いを馳せた。その世界も、満ち満ちた世界であったはずなのに、それ以上のものを、今の生活に感じている彼女は、ゆっくりと瞳を閉じながら言葉を続けた。
「カノンも分かる日が来るわ。あの二人が互いをどれだけ大切に思っているか。そしてその姿を愛してしまう私の心も」
 伏せられた瞳が再び開かれ、浮べられた笑顔の中にあるあまりの強さに、飲み込まれたカノンはしばらくミリアディアを凝視してしまった。それは決して行儀の良いこととは言えないが、彼女の中ではひとつの答えが生まれていたのだ。
「私、ミディ様大好きですっ」
 芯が強く、そして人を愛することを知っている年上の貴婦人の心意気に惚れた、という事だけはどうやら確かなようである。
「わたくしもよ、カノン。ルイーゼに言ってお茶を持ってこさせましょう。お茶の作法もおさらいしないと、その後は踊りの練習もしなければね」
 一瞬目を丸くしたミリアディアだったが、その後はまた花が綻ぶようなふわりとした笑顔を浮べて、素早く色々と指示を出し始めた。この頼もしささえ感じられる貴婦人がいれば、とりあえず晩餐会は乗り切れるだろう、と確信に近い感覚を胸に抱きつつ、カノンは
「そういえば、服飾師に頼んだ服はどうなったかしら。晩餐会の出るのだからそれ相応のものを身に着けないと。装飾品も揃えないと! ルーベ様を見惚れさせてしまいましょうね」
「はい!」
 本当に姉がいたらこんな存在なのだろうか、夢のようなこの世界にいるから現実味がないといえばないのだが、こういう姉が身近にいてくれたらいいのに、とカノンはふと遥か遠くに感じられる地球に思いを馳せながら、迫りくる晩餐会を乗り切るための術を彼女から伝授されていくのであった。
 地味すぎず、派手すぎず、しかししっかりと装飾された広いカノンの部屋で、この世界で生きていく為の第一歩の知恵を彼女は得ていくのであった。


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