6.長い一日の終わり

 ルイーゼが彫刻の施された扉を控えめに叩く。すると中からルーベの声がした。
「ルイーゼです。カノン様をお連れいたしました」
「ああ、入って」
「失礼いたします」
 カノンは少なからず、緊張していたが、もう何が起こって驚かないという確固たる意志は固まっていたのだった。

 枕が変わると眠れない、という友人たちもいるが、生憎とカノンはそんなに繊細ではない。枕が変わっても疲れていれば寝てしまうのが人としての道理であろう。人間の欲求に従い、昏々と眠り続けていたカノンが起き出したのは今からおよそ一時間前である。
 陽はすでに落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。ルイーゼに起こされたカノンはニ三度瞬きをした後、今までのことが夢ではないと諦めの溜め息をついた。夢だったら良かったというのが正直な気持ちであるが、もうここまできたら腹をくくるしかないと意を決し、彼女は寝台から起き上がらせたのだった。……カノンを待ち受けていた事実は衝撃的なものだった。
 まずカノンは自分付きの侍女となってしまったルイーゼに『食事を摂るか?』と問われるが、寝起きで何か食べる元気もなく、首を横に振ると、彼女だけではない他の侍女たちも数名部屋に入ってきたのだ。そして彼女に長いガウンの様な物を着込ませると、そのまま彼女を連行する。されるがままに連れてこられた場所は、湯気の立ち込める場所、現代で言うところの浴場のようなものだった。
 水面には赤い花弁が浮いており、室内はかすかに花の芳香を感じる事が出来る。この風呂は、常に魔力で浄化され、温められている物であるとカノンは説明を受けた。夢のようなその光景に見入っていると侍女たちはわらわらと彼女の服を脱がせて言ったのだった。無論、カノンの意志など聞き入れられることはなかった。
 まず、湯が流れ出場所に連れて行かれ、シャワーの要領で体を洗われた。自分で洗うと主張したが、自分たちの仕事である、と主張する侍女たちの迫力に負けたカノンは大人しく身を任せた。
 同性とはいえ、身体を見られ触られる事に抵抗はある。肌が薄桃色に変化したのは湯の温度で体が赤みを帯びているだけではなかった。体と髪を丹念に洗われると、彼女は無罪放免解放され、湯船に浸かることが許された。
 私立であるカノンの学校には温水プールが設置されている。この湯船はそのプールと同等かそれ以上の広さを有していた。そんな所で一人浸かる、という事など二度とない機会かもしれない、少しだけ心を弾ませながら彼女は肢体を沈ませた。浮かぶ赤い花弁を指先で遊びながら、甘い香りと温かな湯気に当たりながら少し肩の力の抜けたカノンはしばらくその状態を楽しんだ後、湯から上がった。
 再びルイーゼ率いる侍女たちに体を拭かれ、髪を拭われ、服を着せられと、聞きしに勝るお姫様扱いを散々された挙句、全て身支度が整えられた姿を全身を映す鏡を見せられて思わず絶句する。誰だろう、この鏡に映っている人間は。と言うのが彼女の正直な感想だった。顔は確かに十六年間見慣れた自分の姿であるが、身にまとっている服は信じられないものであった。
 ルイーゼの用意してくれた服は、カノンの体にぴったりと合っている服であった。さすが侍女である、と思わざるを得ない服選びにカノンは称賛にあたると思ったが……。この精密な細工の施された金枠の鏡に映る自身の姿、薄い化粧を施され栗茶色の髪は結い上げられておらず、肩の中心部分まで伸びた髪の気先が巻き毛にように波打っている。そして身に纏っている服である。胸元の開いているそれは細かい刺繍とレースの施された、淡い桃色のドレス。貸衣装屋にでも行かなければお目にかかることも着る事もないような繊細な服である。
 産まれてこの方こんな服をショーウィンドウ越しに見たことがあっても実際実物を身にまとうとは夢にも思っていなかった。 今まで身につけたことがない上、自分に似合っているか定かでない服装で男性の前に出るのは多少、否、大いに抵抗感があったが、好意を無碍にする訳にもいかず現在に至るのである。

 ルイーゼはドアを開け、一礼するとまずカノンを通し自分も入った。彼女も勿論失礼しますと言ってから頭を下げて入室する。
「お、可愛いじゃん」
 入ってきたカノンの姿を見て開口一番ルーベがそう言う。カノンは社交辞令の言葉を素直に受け取り、シャーリルが椅子に座れと促すと、ルイーゼがその椅子を引きやや戸惑いがちに腰を下ろす。彼女が椅子に座るのを確認すると、ルイーゼは直ぐにお茶を淹れる為に席を離れた。
「……少しは疲れは取れた?」
 彼女が席について、一拍間を置いた後、最初に言葉を発したのはシャーリルだった。瑠璃色の瞳を細めて見つめられたカノンは視線を多少泳がせながら答えた。
「あ、はい。あの後直ぐ眠らせていただいて。そのままずっと……」
「じゃぁ食事摂ってないんだ?」
 ルーベは驚いたように目を見開いた。
「遠慮せずに言ってくれて良かったのに」
「い、いえ、あの、そんなにおなか減ってないので……」
「そっか……腹減ったら直ぐ鈴鳴らせよ? 誰かしらすぐ飛んでくるからさ」
「はい……」
 優しく、柔かく微笑むルーベを見て、カノンの頬は自然と赤くなってしまう。例えそれが、客人に対するための笑みだとしても、彼ほどの美形に微笑まれて、ときめかない女性は少ないだろう。
 椅子に座って身を固まらせていると、茶器を三つと簡単なスコーンのような茶菓子を持ってきたルイーゼが現れ、高級ホテルのウェイトレスに勝るとも劣らぬ動きで机にそれを並べていく。テキパキとそれを済ませると、「では、」と言って今度こそ完全に席をあとにした。主達が込み入った話をするこの場合、彼女は下がった方がいいと判断し扉を後にしたのだった。用があれば鈴を鳴らされれば直ぐに来られるというのもあるからだと思うが。
「最初に遠慮しちまうと、後々この屋敷で生活するの大変になるから、気を楽にしてくれよ?」
「はい……え?」
 彼女が去った後、先ほどまでの話をつなげるように自然に彼は言った。それに連れられて返事をしてしまったカノンであるが、語尾には疑問が残る。
「……君はしばらく、と言うか君が元の世界に帰るまで、ここでルーベの婚約者として生活してもらうから」
「…………はい?」
「突然の事ですまないけど、そういうことにしておくのが、君が一番この世界で安全に過ごせると思うから」
 真実を告げたのはルーベではなくシャーリルだった。だが、誰が言ったか何て今のカノンにとっては関係ない。今彼女はとんでもない単語を耳にした。今、何と? 出来ればもう一度、先ほどの言葉を言ってほしいと彼女は思ったが、脳細胞はしっかりと彼の美しい言葉の調べを記憶してしまっていた。そして、その言葉が脳内で反芻される。
 自分が、眼前に座る、王弟で、騎士団長として身分があり、背が高く、彫りの深い偉丈夫の、婚約者になる。世の女性がうっとりとした溜息をつかずにはいられない程の男性が、婚約者になる。次々と違う言葉で脳内で繰り返される婚約者と言う音、単語。それは告げられたことが事実であることを物語っている。
 続きの説明を紡がれている言葉たちよりも強く脳内で繰り返されている単語にそれ以外のことが考えられなくなる。夢か、それでなければ妄想か。でなければ、そんな単語を意識する機会など彼女にはない。
 混乱を通り越して錯乱してる様子さえ伺えるカノンを察しながらも、シャーリルはこれからの段取りを説明していく。
 まず、兄王よりもルーベと親交が深く、ある程度地位もある貴族の養子になる。そこから正式にルーベに婚約を申込み、彼がそれを受ける。そのままカノンは婚約者としてルーベの下で生活を送っていき、ゆくゆくは妻として迎え入れる者として生活していく、と言うことであった。恐らくそれが一番自然に彼女をこの屋敷に留める理由になるだろう。という一枚の絵に収まってしまうような美形の二人が話しかけてくる。
「その養子先は……まあ大体見繕ってあるから、とにかく近日中に一度向こうに挨拶に行く事になる」
「……はい、わかりました」
 あまりにも唐突な話ではあるが、カノンは今度はしっかりと答えた。ここで生きていく事になるのなら、彼らの言うことをきちんと聞かなければならない。元々何も出来ない厄介者なのだ。お姫様待遇をしてくれる人々に少しでも迷惑をかけないで居られるのなら、それにこしたことはない。しかし、そこでふとした疑問が脳裏をよぎった。
「でも……」
「何?」
 ルーベとシャーリルの二人の声が同時に放たれる。が、カノンは負けずに言葉を紡いだ。
「あの、ルーベ様の奥方様は?」
 これは当然の質問でもあった。ルーベほどの身分の人間であれば、正妻は勿論側室の一人や、二人が居ても決しておかしくない。そんな中に自分のような小娘が出入りするようになれば、当然快く思わないだろう。その方々にも一度事情を話し、挨拶をしておくべきではないか、と彼女は思ったのである。
 それを察したのか、ルーベは視線を泳がせ、シャーリルは盛大な溜め息を零した。もう既に問題が起こっているのか、と少し顔を青くしてしまったカノンを見て、シャーリルはひらひらと白い手を振って言った。
「大丈夫、それについては問題ないから」
「え?」
 奥方様たちは心が広いらしい、と認識した瞬間、絶対零度の視線がルーベを貫いた。
「コイツ、二十四にもなって側室はおろか、正妻さえも居ないから、気にしなくていいよ」
「……え?」
「だから、君は歓迎されるよ」
 人差し指でルーベを差しながら、シャーリルは輝かんばかりの笑顔でカノンを見る。その笑顔は明らかにルーベに対する厭味である。
「……言い寄ってくる女がいないわけじゃないのはお前だって知ってるだろう?」
「ああ、知ってるさ。だけどお前は選り好みしすぎていつまでたっても一人を選ばないじゃないか」
「そりゃそうだ。考えても見ろよ。金と権力で操れる女は操りやすいけど、化粧をすることが最大の仕事とか勘違いしているような女を正妻にして、オレにとって何の利益があるだっつーんだよ」
「出た。普段女性を大切にしてるように見えて、実は軽んじてる男の台詞」
 シャーリルはわざとらしく肩を竦ませ、溜息をついてみせる。その態度に、ルーベは憮然とした表情になる。
「結局の所、理想を追い求めすぎて、選べなくなってるだけの人間が、偉そうなこと言ってるな」
 その言葉にルーベは言葉を詰まらせる。
「意に沿わない結婚ってどうも……」
「王弟ともあろう者がそんな生温いこと言っててどうする。もう二十四なんだぞ? そろそろ典礼省やら国務省やらが動いてくるぞ?」
 実際には、そろそろ、どころの騒ぎではなく、随分前から彼の周りでは忙しなく、名立たる貴族の令嬢たちが肖像画を送っては来ている、どれにも反応を示さずにルーベは今までやってきていたのである。
「恋愛結婚者が言っても何の説得力もないぞ?」
「だったら、自力でさっさと条件に見合う人間探して来いっていってるんだ。うちの息子より何歳年下の主を作ろうとしてるんだ、お前は」
 目の前で繰り広げられる問答を流して、カノンは先ほどのルーベの言葉に少なからず感動した。決して女性の立場が高いとは言えないこの世界で、彼の考えはカノンの住まう現代社会のそれに近い。ただでさえ長身で、人に与える威圧感が人より多いであろうルーベに多少それを感じていた彼女であったが、今の言葉は素直に共感でき、また彼の人となりに触れ好意を持つきっかけを持てた気がした。
「全く、結局はお前が甘いのが悪い」
 そう言うシャーリルも恐らく、彼のその甘いところが嫌いではないのであろう。立場上、伴侶が居ないのは決して良いというものではないのだが、そういう意思を持ってしまっている以上、どうすることも出来ない。カノンは対面に座っている二人を見て、この世界に来て初めて心からの笑みを浮べられた。その蕾が花開くような笑みを見て、彼らも自然と微笑が零れた。
「まあ多分滞りなく、今話したように進んでいくから心得ておいて。悪いな、これだけの為に呼び出して」
「話は早い方が良かったからね。少し何か食べてから、また休むといいよ」
「……はい」
 休息は取れるうちにとっておいたほうが言いと彼らは語る。彼らを待つ歴史の動きは決して彼らに合わせてくれない。流れ出したら止まらない。それを感じるからこそ、休めるうちに休めという意味合いで言葉をかれるのであった。それを、なぜか理解できた彼女は素直に頷く。
「時間があれば、オレが屋敷を案内してやれるんだけど」
「いえ、そんなお手数かけられません!」
 心底残念そうに言ったルーベに、まさか仕事に差し支えがあるほど忙しい方にそんなことはさせらないと、カノンは必死で拒絶した。もしこの場でカノンがそれを承諾しても、彼の隣に座る世界最強とも誉れ高いレイターが持てる力の限りを尽くして彼を諌めているであろうが。
「でも、この屋敷を自由に出歩けるようにはしておくから。もし迷ったら、そこら辺に居る人間に聞けば案内してもらえると思うし。暇があったら散策してみて」
「はい、ありがとうございます!」
 結局の所、婚約者と言う名は、彼と自分との契約関係の別名称であることに他ならないことを彼女はしっかりと理解していた。彼は自分を護ってくれる、その代わり、自分の持つ力を彼の為に奮う。その力が役に立つかは確証はないが。
 それでも、今カノン地震が出来ることなどほとんどないのである。彼らの言葉に従うより他にない。それに、この時カノンは仮初とはいえ、ルーベのような美男子の婚約者になれる機会などめったに出来ない経験だと、これを前向きに捉え始めていた。
 ルーベを本気で思う女性が出てくるまで、この立場に甘んじさせてもらおうと、彼女は内心で思っていたのだった。
 こうして、今カノンにとっての長い一日が終わりを告げようとしていた。


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