5.始まりの扉

 重鎮な机に一杯、書類の束が山を為して鎮座していた。これは本日、ルーベが全て決済しなければいけない書類である。一騎士団長としての仕事よりも、どちらかと言うと民からの嘆願書の類が多いのである。本来ならばこれはルーベの兄王の元へ送られるはずである。
 しかし、兄王の下へ行く前に、必ずルーベが目を通しているのだ。通らない民の叫び声が、少しでも彼に届くようにするために。そのためにいらない仕事を背負い、自分の仕事が増えるという悪循環を生んでいる事に彼は気がついている。
 上に立つものとして当然の責務だと感じているため、自分の責任ともう一つとして常に仕事に望んでいるのである。
 仕事熱心この上ない、と人は言うが、それでも肉体労働派の彼にとっては机にかじりつき、書類と対峙している時間は思いのほか辛い。しかし今のルーベの悩みは眼前の膨大な書類の山ではなく、連れて帰ってきた一人の少女のことだった。この広い屋敷にたった一人人間が増えた程度では、何事も揺るがない。だが、この世界に現れた『鍵』はこの世界と国の全てを揺るがす。
 それは古より続いた『鍵』の役目。過去を学び、今を知るルーベにとってはあまりいい思いがしない。
「……なぁ、シャル」
「何だ?」
 呼ばれた青年は彼のほうも見ずに手を動かして、ルーベの手となり頭となり、膨大な書類の決済に尽力を注いでいた。
「お前は、カノンをどうしたらいいと思う?」
 ふいに書き物をしていた手が止まり、シャーリルが顔を上げた。さらり、と黒い髪がその動作で流れる。
「どう、って?」
「……多分このまま行くと絶対遅かれ早かれ兄貴がカノンの存在に気がつく。そうなる前にこっちが手を打っとかないといけないだろう?」
「まぁそうだな」
 シャーリルは再び書類に視線を落としながら、答えた。
「カノンが『異世界からきた鍵』って知られたら……」
 多分、彼女に危険が及ぶとルーベは悲しげな表情で呟いた。自分が傷つくよりも、遥かに他人を気遣う心を持つ彼は、心苦しそうに言う。
「過去、英雄帝は『鍵』が魔法を消す能力があるとは知らなかったんじゃなかったか?」
「ああ、偶然ディマリス山で拾った『鍵』を屋敷の下働きにしようとしたらしいんだけど、成り行きで偶然魔術師の力を『消しちまって』侍従になったってオレは聞いた」
 世の中に広まっているお伽噺のような史実もさることながら、ライザード家にはより詳しく『鍵』の経緯が記されているのだ。無論それをシャーリルも知っており、今ルーベが言っているのは確認の為のものである。
「で?」
「あの魔術を消したのは確実にカノンだよな」
「光の魔術を避けるなら、発動前に避けなきゃ即死だよ」
 光を越える速さなど、この世に存在しない。扱いが難しい光の術であるが、それを駆使することが出来るのであればそれは相当な力になる。それをいとも簡単に消してしまったカノンの『力』は確かに『無』そのものであった。その力をもって、かの英雄帝はこの国の王と君臨し、今の自分たちがある、とルーベはわかっている。
 エルカベル帝国は帝国の寿命ゆえ、皇祖が手にした『鍵』を使い、新たな、シレスティア帝国の始まりの扉を開け放ったのだ。今はまだ滅びるべきではないこの帝国、今ならまだ、建て直しが効く。その実行者がルーベであり、その鍵がカノンである。しかし、鍵は鍵故に危険は伴うであろう。実際英雄帝の『鍵』も幾度となく危険に曝されていたという。
 それを帝国の誰よりも知っているルーベだからこそ言うのだ。
「あの子を……カノンをあんまり危ない目にあわせたくない」
「ルーベ……」
 ポツリと漏らされた本音を聞き、シャーリルは思わず彼の名を呼んでしまった。つい一ヶ月前、彼は親友の女性を失っていた。彼女に対して恋心は抱いていなかったが、彼にとって大切な人であったと言う事実は間違いない。その彼女に、恐らくカノンを重ねている。過去を紐解けば、何もカノンと英雄帝に仕えた侍従だけが異世界からの来訪者ではない。
 異世界からそうやって突然こちらの世界に来た来訪者は他にも居るが……。その多くは歴史から途中で姿を消している。それは何を意味しているのかを、ルーベは正確に知っているのだ。
 彼を王と予言し、自ら崖に身を投じた巫女パルティータ。この一ヶ月間ルーベは欠かさず、毎朝襲われた神殿に足を運んでは彼女に懺悔を捧げている。ルーベの優しさは尊いものであるが、この優しさはいつか彼の身を滅ぼすのではないかとシャーリルの頭の片隅で常に警鐘が鳴っている。
 彼女を助けられなかったの事実であるが、おそらく彼女はあの時、例え自分たちが助けに来るのがもっと早かったとしても死んでいたであろう。それが彼女が選択した道であったのだ、とシャーリルは正確に事態を把握していた。だからこそ表情に暗い翳りを落としているルーベに責任はない。彼は告げた。
「だからと言って、時は止まらない。歴史は常に動き続ける」
 ルーベは黙って彼を見つめた。シャーリルは視線をそらす事はなく、ただ不安げな表情を称える青年の黒紅玉の色をした瞳を射抜いて言葉を続ける。
「新たなる王を欲する者は多い。それをお前にと望む者も」
 それは真実であり、過去の史実を再び繰り返す為の言葉。忌むべき歴史を繰り返すことは厭うべきだが、これは革命であり、人々が望む歴史の必然であった。その当事者がこんなにも今、心を痛める必要は皆無である。彼は声色柔らかに言葉を続けた・
「失うのが怖いなら、今度こそ、彼女をお前が護れ」
「………」
 ルーベの瞳の中の光がほんの僅かに力を増した。
「パルティータが、お前を次の王にといった。彼女はお前の導き手を誘った。彼女は自分の役目を果たして死んだんだ。後悔はしていない」
 真実を語らうシャーリルは淡々と、彼に問う。
「次はお前の番だ。……お前はどうする?」
「オレは……」
 まるで操られたかのように、本人の意志ではなく、ルーベの唇は音を刻んだ。
「お前がどんな選択をしようが、僕はお前に付いていく」
「シャル……」
 それは彼の絶対の忠誠ゆえ。幼い頃、彼の前で刻んだそれを今更違えるつもりはない。彼が死ぬ時は、自らも死ぬ時。そう当然のように思っている二人の絆は深い。その彼が、ルーベに真摯に言葉を投げかける。
「お前は、どうする?」
 この時のルーベにもう答えが出ているのは、シャーリルにはわかっていた。だがあえて言わせるのは言霊として宣誓させるため。
「……オレは……」
 誓いを口にする彼の表情に迷いわなく、『鍵』が現れた事で再び、動きを早めた歴史を直接彼らは感じる事になる。



 上も下もない。右も左もない。ただ永久に変わらぬ普遍を約束された空間があった。しかしそこには僅かに輝く銀色の星々と、一目にはその役目を担いきれない淡い光を放つ扉があった。そしてそこに溶け込むかのように一人佇んでいる人物が居る。……カノンをシェラルフィールドへと導いた人物である。
 彼がふと視線を上げるとそこには、天蓋付きの豪奢な天蓋で小さな寝息を立てて眠るカノンが見えていた。少しそのまま視線をそらせば、金茶色の髪と碧玉色の瞳を有した少年が、短剣を持って敵を威嚇している。またさらに視線を動かすと、そこには鍛錬中の青年の姿が見える。
 視線を移動させればさせただけ、彼は見る。そこには時間も時代も、関係ない。
「機械仕掛けの沃野から、餓えた美しき荒野へと。<<鍵>>は無事にかつて、確かに貴方が愛した楽土の遺産に降りました」
 歓喜を含んだ男とも、女とも取れない澄んだ声が青く透ける漆黒の闇に閉ざされた場所に響き渡った。
「……我が王の残したこの飢えた美しき荒野へと降りた、機械仕掛けの沃野からの<<鍵>>は、幾度となく繰り返される争いを誘うであろう」
 誰も、何もない空間で黒衣の男は歌うように言葉を紡いだ。それは予感や予言ではなく、真実である。世界と歴史を同時に見る物は歌う。
「望むなら、我も誘おう。それがどれだけの血が流れを生もうとも。それがどれだけ人の嘆きを生もうとも。それを世界が望むのであれば……」
 地面と呼べるものが存在しない青い世界に、ゆらりと、仄かな光をまとった白い扉がそびえたっている。精緻な細工の施されたそれは、確かに両開きになっている扉だった。だがその扉に続いているはずの建物がない。それだけでは何の役目も果たせないだろうに、扉は表にも裏にも何もない空間を広げるだけで、静かに輝きながら佇んでいた。
 その扉に視線を向けると、彼はゆっくりとその扉に近づいた。そして扉に愛を囁くように押さえきれない歓喜を秘めた、ぞっとするほど妖艶な美しさを宿した表情で再び赤い赤い唇を動かした。
「それこそ、我に課せられた尊き使命。我が王たちが永久の仕掛けのごとくに与えた栄誉であるが故」
 そうささやいた存在は、扉の番人と呼ばれていた。
 名前がないのではない。その名を呼ぶ資格を持つ者が、番人の前には存在していないというだけだ。彼の名を呼べる存在はただひとつ。彼が思いを馳せる存在、かつてこの世界を二分した偉大なる王たち。
「我、愛しき王たちよ。我すべてを捧げる強き王たちよ」
 番人の言葉は遠い誰かへと向けられていた。痛いほどの静謐だけが降り積もる空間に紡がれた声は、どこか風に似た現象を生み出していった。足元まで覆う闇色の髪がかすかに揺れ、銀色の星に触れてきらきらと輝いたのだ。
 虚空をみつめる瞳にあるのは、その誰かに捧げる至高の尊崇。憧憬と畏怖と、あるいは恋情とさえ言えるような思いである。決して色褪せる事がない、永久なる思い。身を焦がしてしまうほど情熱的であり、それはただ静かに燃え広がっていくものであった。時が立つにつれてそれはさらに強まっていく。番人は白い扉へと闇の瞳を向ける。
 繰り返される大乱と、その度に響き渡る強い願いを叶える者として。それこそを望んだ王の僕として。
 番人は扉を見つめながら、静かにささやいた。
「先の大乱から七百七十七の時が移ろう前に、四玉の王の加護が消えうせる前に。いつか滅びる運命であれど、今はまだその時期ではない。王が望まぬ事象を消すのも、また我の役目であるならば」
 喜び、<<鍵>>を誘おう。と
 鍵を得たといえども、必ず覇者たるわけではないことを、おそらくは誰よりもよく知りながら。
 その響きは、御使いが何者かに捧げる絶対の神託にも似ていた。
「王よ……」
 この一言に込められた万感の思いは荘厳で、敬虔な言葉だった。番人は柔らかく双眸を細めた。
 時は流れるも、人は変わらず生きる。四玉の王が愛した世界に。飢えた荒野が、機械仕掛けの沃野がかつてひとつであった片割れを欲し、慟哭するならば、王の名の下へ誘わん。
 番人は祈る。
 我が王よ、という、限りない思慕を込めたささやきを放って。
 その声を聞く者は誰一人としてなく、それでも扉は淡く白く輝いていた。淡々と、彼の者が彼の役割を遂行するように、扉もまたそれだけが役目であると小さく主張するように。
 白い輝きは美しく、銀の星と共に踊り続けていた。
「さぁ、今一度目覚めるがいい、『鍵』よ」
 扉から視線を外した番人が、その緋色の唇を笑みの形に歪めてカノンを捉えた。
「まだ始まりに過ぎぬ、まだ出会いに過ぎに。本当の始まりはまだ先にあるのだから」
 その声に先ほどまでの愛を紡いでいた声ではなく、再び色も音もない淡々とした響きが宿る。それは数多の歴史を知り、数多の争いを知る番人は今を知り、先を知る故にまだ出会いを交わしただけの『鍵』と王となりうるものの目覚めを,かの空間で促した。



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