4.困惑

 彼女達が、馬車に揺れらてようやく辿り着いた頃には、太陽の光は既に中天に差し掛かっていた。まずはルーベが降り、続いてシャーリルが。最後にカノンが地面に降り立ったのである。
 馬車から降りたカノンは、足元がふらつくのを必死で耐えていた。直接馬に乗った衝撃よりは遥かに少ない振動で来られたが、決して遅くない速さで、整備されていない道を走り続ければ現代人の柔な三半規管が悲鳴を上げても無理はない。
「おっと、大丈夫かカノン」
 第一歩を踏み出した彼女の体が真直ぐに立てられないのを見抜いたルーベは素早く彼女の前に手を差し出した。
「あ、申し訳ありませんルーベ様……」
 ぐらりと回る視界と迫り来る吐き気に耐えながら、カノンが顔を上げると思わず気持ちが悪さも吹っ飛ぶぐらいの光景が彼女の目に飛び込んできた。馬車の窓はすり硝子のような物が張られてるようで中からも外からも何も見えないようなっていた。
 故に、今カノンが見ている光景が、あのパルテノン神殿を思わせるような神殿以外で初めての景色なのである。この世のものとは到底思えないほど美しいものであった。
 今は扉の前に立ってはいるものの、遥か先に見える門まで乱れなく敷き詰められた石畳が敷き詰められていた。そこ以外は、芝生が綺麗に敷かれており、それはまるで深緑色の絨毯のようだった。辺りをぐるりと見渡せば、日本でも有名なテーマパークが何十個入ってしまうのだろうと思わせるほど広大な敷地に、そのテーマパーク内に建っている城よりも遥かに大きくまた美しい屋敷にただカノンは目を奪われた。赤茶けた煉瓦色の外壁に、深緑色の屋根、柔らかな茶の窓枠はそれだけで幻想的な雰囲気が醸し出されている。
 建物の善し悪しを深く知っているほど彼女の知識は広くないが、建造美の粋を極めている、という事だけは理解するのそう時間はかからなかった。
「王宮よりは狭いけど……勘弁してな」
 申し訳なさそうにそうルーベは呟くが、居住地帯が極端に狭く、小さな場所に多くの建物を建て地盤沈下を引き起こしている日本に少しでもこの土地を分けてくれ、と混乱のあまり彼女は思った。しかしそれは言葉にならず藍色の外套を覆ったまま彼に手を引かれ建物の中へと足を踏み入れていった。
 屋敷の中に一歩、足を踏み入れれば侍従や侍女たちがずらりと並び、『おかえりなさいませ、旦那様』と寸分も声を乱さず発しながら、頭を垂れる光景を彼女は予想していたのだが飛び込んできた光景は違っていた。
 確かに数名の家僕が頭を下げ、ルーベを迎える。主人が留守にしている間、変わったことがあれば、おそらく侍従頭なのであろう男性が、ニ、三彼に言葉を告げた。するとルーベもそれに答えて彼に何かを命じると、彼は頭を下げて去っていく。
 洋画を見ているかのような光景である。
 ホワイエと思われるこの場所は、曇りひとつなく磨かれた大理石のような石が敷き詰められていた。扉から階段へと続く道筋には赤い絨毯がひそこが引かれていた。天井は丸みを帯びているのにもかかわらず、天井画が平面に見える技法が使われており、この建物は建造物である以上に芸術品であるといったほうが納得してしまいそうな物である。
 建築様式も、装飾の類も、天井画も、地球に存在している名のある宮殿を思い起こさせる雰囲気がある。……ルーベの身分の高さを思い知るには充分すぎる佇まいだった。
 まだ出会って数時間ではあるが、カノンのイメージでは身分の高いものという高飛車で高慢で、あまりいい印象は持てない種族というイメージが強い。だが、ルーベは全くそのようなおごり昂ぶりが見られない。人と目線を合わせて会話の出来る彼を慕い、彼に仕えている人も多いだろうと思うと、と小さな笑みを浮かべた。
 しかし、この土地屋敷で狭いと言うのであれば、王宮級になればヴェルサイユ宮殿もかくや、という豪華絢爛ぶりになるのだろうと彼女は静かに思っていた。
「ルーベ様、こちらの方は……」
 一人の侍女が、ルーベの羽織っていた外套を預かりながら当然の質問に答えた。藍色の外套を目深に被った恐らく少女だと思われる主が手を引いて連れてきた人物に注目が行くのは当然である。
「ああ……客だから。部屋を宛がってくれ」
「畏まりました」
 ペコリと頭を下げた侍女は、色々と周りに居た人物に指示を出した。ルーベは二人の斜め後ろに控えていたシャーリルの方に首だけ動かして、軽く目を合わせると彼は小さく首を動かし、階段に向かって歩き出した。
「カノン、悪いんだけど、オレこれから仕事があるんだ。用意させた部屋で休んでいてくれるか? ……多分、夜まで会えないと思うんだけど……」
 酷く申し訳なさそうにルーベがそう言うと、カノンは滅相もないと首を横に振った。
「あ、私こそ甘えてしまって申し訳ありません。お手を煩わせてしまって……」
「そう畏まるなって、カノンは大切な客人なんだから。ルイーゼ、ルイーゼはいるか?」
 カノンに話しかける声と、侍女の名を呼びつける声とは天と地ほどの差がある。後者の声は確かに彼がこの広大な屋敷の家主であり、国の中でも相当の地位にある人物であるというのをうかがわせる威厳のある声であった。ルイーゼ、と呼ばれた人物は静かにルーベの前に現れ頭を垂れた。
「はい、ここに」
 上品に長い栗色の髪を邪魔にならないようひとつにまとめて上に上げている、給仕服に身を包んだ女性は、品の良ささえ伺える。カノンよりニ、三歳年上のようにみられる彼女は、凛とした美しさを持った人物であった。
「オレはこれから仕事があるから、この子のこと任せる。この屋敷で不自由の無いようにさせてやってくれ」
「畏まりました」
 一度顔を上げ、主を見て、今度はカノンに向けた彼女は頭を下げた。この場合条件反射のようにカノンも頭を下げる。
「あ、さ……カノン・サクラギと申します。よろしくお願いします」
「まぁ、お顔を上げになって下さいませ。わたくしはこのお屋敷で侍女をやらせていただいておりますルイーゼと申します。よろしくお願いいたしますカノン様。では、ルーベ様あとはわたくしにおまかせくださりませ」
「ああ、まかせた」
 彼女に任せておけば安心だからと、瞳で語ったルーベはカノンの背中を軽く叩き彼女の元へ促す。カノンはそれに素直に従い、ルイーゼという女性が差し伸ばした手の上に、自分の手の平を静かに重ねた。
「では、ルーベ様、御前失礼させていただきます。参りましょう、カノン様」
 にっこり微笑んだルイーゼの表情は人懐っこく、決して堅苦しい人間ではないと、危険な人物ではないと主張する。一瞬手を重ねた瞬間こそ、身体を強張らせてしまったが、相手は女性である。女子校に通うカノンにとっては、男性よりも女性の方が安心する。
 彼女が体の力を抜いてくれた事に満足したのか、ルイーゼはもう一度『参りましょう』と言うと、ゆっくりと赤い絨毯の引かれた道を歩いていった。


「あ、あの。私の事はカノンと呼んでください」
 様付けになれないカノンはもう既に手を離し、しずしずと先を歩いて道を指し示している女中に焦りながら彼女はルイーゼと名乗った女性に必死に伝えるが、ふんわりと笑った。
「何を仰いますか。貴女様は我主、ルーベ様がお招きになった大切な大切なお客様でございます。ご無礼を働いてしまったらわたくしがお叱りを受けてしまいます。お気に召さないかもしれませんが辛抱なさってくださいませ」
 改めて頭を下げられてしまい、カノンはもう反論もすることが出来ずただただ恐縮するばかりである。絵本の姫君が駆け下りた階段を昇りきって、それからまたさらに絨毯の道を進む。所々に置かれた骨董品や、刻まれた彫刻や飾られた絵画、装飾の施された姿見たちは移動するカノンの目を楽しめるものであるが、今現在彼女がそれを楽しむ余裕は全くない。
 目深に被った藍色の外套は、すでにルイーゼが持っている。この姿に彼女は少しも驚くことなくいてくれたことは、少なからずカノンを安心させたのは確かである。制服姿でこの屋敷内を闊歩するのは多少躊躇いはあったが、今現在この辺りに人気はなく、唯一いるルイーゼも格段気にしていない様子なので少し安心して歩いていられるのである。
「こちらです、カノン様」
「は、はい」
 開かれた扉の中に、恐る恐る足を踏み入れると、そこに広がっていた部屋は貴賓室と称されるに相応しい場所であった。まず、一般家庭の敷地総面積と一致してしまいそうな広さに目を奪われる。次に目に入るのは、カノンが五人、ゆうに寝れそうな広さを誇る天蓋付きの豪奢な寝台である。敷き詰められた絨毯には土足で踏んでいい気がしない。
 人を招く為に設置してある重鎮な大きな机と、長椅子。そして所々に品よく飾ってある絵画や骨董品の数々。鏡台にさえ精緻な細工が施されている物が用意されており、小物の一つ一つにも職人のこだわりが伺える逸品ばかりである。この部屋だけで一体総額はどれほどのものだろうと、カノンは思わず邪なことを考えてしまった。
「何か御用がありますれば、そこに置いてある鈴をお鳴らしくださいませ。近くにいる者がお部屋に参りますので、その者に御用をお申し付け下さい」
「えっ、そんな……」
 申し訳ない、と言おうとしたがそれが、それ相応の身分の人間の側に置かせてもらっているのであれば致し方が無いと自分に言い聞かせ、不承不承ながら頷いた。
「お召し変えの服は後でルーベ様とシャーリル様と夜にお会いするまでには数点用意させていただきますので、今しばらくお待ちくださいませ」
「はぁ」
「お昼のお食事はこちらにお持ちいたした方がよろしいですね。何かお好きなものは御座いますか?」
「いえ……、その……」
 お好きな物、と問われてもスパゲッティーとかケーキとか、といっても多分通じないだろう。そして、今だ襲い来る三半規管の麻痺は衰える事を知らない。彼女は全く食欲の無い状態だったので、申し訳なさげに呟いた。
「その、今はあまり食欲が無いので……休ませていただけませんか?」
「畏まりました。では、お食事が必要になりましたら鈴を鳴らしてくださいませ。そのお姿のままでお眠りになりますか? 夜着程度ならすぐにご用意できますが……」
「あ、お願いします」
 流石に制服でこの天蓋付きベットに寝るのは気が引けたので、その言葉には素直に答えて見せた。
「はい、では直ぐにご用意させて頂きますので。もしお眠り続けておいででしたらルーベ様たちとお会いする前にお起こしいたしますが、よろしいでしょうか?」
「そうして下さい」
 あまりにも至れりつくせりの待遇に、最早カノンは恐縮するしかない。
「お召し替えの前に、一度湯を浴びて頂きたいので、少しだけ早くお起こしいたしますね」
「はい。わかりました」
 自然な動作で夜着をカノンに手渡して微笑んだルイーゼはお召し替えをお手伝いさせてくださいというのを、丁重に断って自分でネグリジェのような夜着に着替えると、制服を洗濯するといって彼女はそれを持って部屋を恭しく後にした。
 ……とんでもないお姫さま待遇である。ゆっくりと天蓋付きの寝台に歩み寄り腰を下ろすと、あまりにも柔かいそれにカノンは面を喰らう。しかしそのまま寝台に倒れてしまうとそのまま意識を手放しにかかった。正確に言えば意識を維持しているのが難しくなったのだ。肉体的疲労はもとより、精神的疲労が濃いカノンはゆっくりとその身を無意識下に委ねていけたのである。
 その薄れゆく意識の中で、少しだけ聞いたかつて自分と同じくこの大陸に現れたという伝説のというよりは、現実の史実に現れたと言う『鍵』の存在に思いを馳せる。新たなる王の『鍵』、その存在はどれほど偉大なものだったのか。どれほど王に役立てたのだろうか。突然『鍵』と告げられて、一体どう対処したのだろうか。きっと強靭な精神力を持ち、とても勇敢な人物だったんだろうと思う。きちんと『鍵』の役割を果たせるほど素晴らしい人物だったに違いない。
 出会った事もない過去に現れた同じ『鍵』の存在をどうしても考えてしまう。会って話しが出来れば一番いいが、それも適わぬ事である。
 しかしそれとて徐々に意識が薄れていくにつれて、消えていく。今カノンに必要なのは、休息であった。それでもこれから起こる事象に耐えられないかもしれないが。


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