2.残光の舞う場所

 花音が目を開いた瞬間に目に入ったのは、真夏の苛烈な光でもなく、その陽を照り返す薄汚れたアスファルトでもなく、日常慣れ親しんだ風景ではなかった。冷えた石造りの何かの上に彼女は横たわっていたらしい。夏服の制服にその冷たさは、少し寒いぐらいの感覚を彼女に与えた。ニ、三度瞬きをした後、彼女はゆっくりとその身を起こした。
 白い石造りの、まるで小説に出てくるような神殿を思わせるそこは、間違いなく今まで花音がいた場所ではない。教卓のような場所に横たわっていた花音がそこからそっと降りると、穿いていたローファーが石とぶつかりタンッという音を広く高い場所に響かせる。どう考えてもここは、目を閉じていた以前にいた日本ではない。
 高い位置から入る木漏れ日は、どう考えても春の柔らかな陽光。漂う空気に、僅かに香る花の香りもそれを物語っていた。しかし、甘い甘い花の香りは、彼女の嗅いだことの無い香りで、花の形がわからない。恐らくは四季のはっきりしている日本国では咲いていない花なのであろうと彼女は思った。
 花音は、半袖ではまだ若干寒いこの季節のせいか鳥肌の立っている両腕を自らの両手で腕を抱きしめ、そして思いを馳せる。『ここは一体どこだろう』と。
 日本ではないことは確かである。こんなに美しい場所なら、世界遺産登録されているはずであるし、学校の授業で『世界遺産』についてまとめろという課題が出たこともあるせいか、花音はそれに詳しい。しかしその彼女の記憶の中にもこんな場所は存在しない。この広い大聖堂のような場所に佇んでいるのは花音一人唸った。
「……拉致や誘拐じゃ……ないわよね? でも、この場合……」
 そう考えざるを得ない。と発せられない言葉を心の中で呟く。その場合今この状態が不自然でしょうがない。もし、本当に拉致や誘拐の類であるならば、犯人が近くに居るはずだし、手足が拘束されているというのがほとんどのはずである。しかし今の花音は両手足の自由も効く上、この場に一人という状況である。拉致や誘拐された人間が、こんなに綺麗な場所に一人で放り込まれるということもないだろう。
 ますますわからない、と眉間に皺を思わず寄せてしまう花音は一瞬間を置いた後に再び言葉を紡いだ。
「……もしかして………」
 言葉の先の言葉を、脳内で全力否定をして、ニ三度自らの頭を小突いたのち、彼女は大きく深呼吸して再び言った。
「クロロホルムでも嗅がされて、そのまま拉致されたってこと……? 一番妥当なところで」
 その割に意識ははっきりしている。身体の気だるい感じしない。辺りを改めて見つめながら、彼女は一人呟いた。
 澄んだ綺麗な声が、建物内に反響する。あまりにも驚きすぎて、返って冷静になってしまった花音は記憶の一時途切れる前の出来事を思い出してみた。
「黒ずくめの人が出てきて、私を『鍵』って……。それから……扉が突然現れて……」
 ひとつひとつ丁寧にその時の状況を思い出してみる。花音は一度見聞きしたことを忘れない。故に、彼女の導いている記憶の状況をすべて正解なのだが、結果がわかってもその過程と原因がわからなければこの場合意味が無い。頭の片隅で、原因と課程と結果をすべて綺麗にまとめあげる『答え』が必死に自己主張しているが、涙が出てくるほどありえない答えなので彼女はそれを全否定する。「小説の読みすぎだ」と自分に言い聞かせながら。
 気を取り直して、百メートルほど離れた所にある、先ほど視界に入った木造の扉を目指すべく、調度扉に背を向けていた花音はふりかえり、教壇のような場所のあるところを回ってそれの前に立った。それと同時にギギギッと音を立てて、扉が開け放たれ、思わず花音はその身を硬くする。
 反射的に、というか自然な反応として拉致誘拐犯が戻ってきたのかと思ったのである。だが、彼女の視界に入ってきたのはどう見ても正気の沙汰と思えない服装をしている三人の人物だった。必然的に、扉を開けた先頭の人物と目が合う。黒紅玉を切り取ったような深い色をした瞳と。
「………」
 花音の瞳には、彼しか映っていなかった。赤みの強い茶の長髪に、黒紅玉をはめ込んだような美しい瞳を持つ、彫の深い顔に逞しい体躯にマントをつけた美丈夫何て彼女は物語の中でしか遭遇したことがない。
 実際に出会うのは初めてなだが、花音はこの時目が少しだけ熱くなっていたのだ。瞳を見つめあったまま、二人は硬直してしまう。それは驚きではなく、不思議な感覚に全身を襲われたからである。花音の脳裏で誰かがささやいた。「もう一人の鍵よ。汝が鍵であるが故に、鍵を欲する者の元へ」と。それは黒衣の男が呟いた言葉だった。
 『鍵』の意味はわからないが、それでも今眼前にいる人物が、花音にとって掛け替えのない人だと身体と心が訴えてくるのだ。言い知れない感情に苛まれ、動くことすら侭ならない彼女の世界は、鼓膜が痛くなるような沈黙と静謐が支配していた。
 それを破ったのは、硬直して動けないでいた花音が、ふらりと踏み出した一歩の音だった。カツンと高く響いた音に、同じく微動だにしなかった三人も呪縛から解き放たれたかのように動き出す。
「この神殿を汚しに来たか、王の狗めっ!! 単身乗り込んでくるとはその心意気は認めてやるが、愚の骨頂。成敗してくれるっ!!」
 赤茶けた色の髪をした、扉の先頭に立っていた男を押しのけて、上から下まで白尽くめのローブに身を包んだ、必死の形相をしている老人が先頭に立った。
「ちょっと待て!! どう見たって兄貴の刺客にゃ見えねえだろう!!」
 しかし老人は、押しのけた男の言うことなど聞かず、両手をかざすと真直ぐに光の螺旋が花音目掛けて放たれた。
 出会って数秒もたたない間に、近未来武器のような物で殺されるのか。ああ、ここはどこか外国の秘密裏に開発されている武器製造所で、その武器で殺された人間がどうなるかというのを実験しようとしているのか、一瞬の間にそんな事が脳裏を音速で駆け巡るせいか、それともあまりの展開に脳味噌がストライキを起こしているのか、花音は悲鳴を上げなかった。
 ただ人間として当然の反射として、その場にしゃがみ頭を覆った。……しかし、来るであろう衝撃と、訪れるであろう死はいつまでたっても訪れない。花音は恐る恐るきつく閉ざしていた瞳を開けた。身体に痛みは無い。あまりに強烈な痛みは脳が遮断してしまい感じないとも思ったのだが、身体に怪我は無い。花音も唖然としているが、それ以上に呆然としてたのは三人の人物たちだった。


 ルーベの制止の声も聞かず、老神官は決して軽くは無い魔力を発動させ、一撃で相手を絶命させられるような突き刺す光の螺旋を少女に打ち放った。光の速さを越える術とはこの世にほとんど存在しない。故に、光の術を防御するには相当の術者でも難しいのである。だがどうだろうか、完全に死んだ、と思われた少女は無傷で生きていたのである。
 老神官は、世界で最も優れているレイターには劣るものの、それについで魔力を秘めたる者として敬われている。その者の術を破るという事は、彼女はレイター級の魔力を秘めているということになる。そんな存在を王は飼っているのか、と三人の脳裏にはある種戦慄が駆けめぐる。
「そんな……馬鹿なっ!」
 老神官は驚愕と恐怖の色を隠せない。それには正当な理由である。恐らく今彼の背中には冷たい汗が伝っているのであろう。自らの最大と言っても過言ではない魔術を簡単に消滅させてしまう相手である。まともに戦って勝てる相手ではないのだ。だが、王から放たれた刺客であるならば、この隙を逃すはずが無い。
 彼女は攻撃をするそぶりを見せるどころか、突然放たれた術を避けようともせず、消滅させた。そして今は身を固め明らかに対処が分からないという表情を浮べていた。そこでルーベは確信する。「彼女は敵ではない」と。
 一歩、ルーベが石造りの道を歩み出ると、今度は後ろに控えていたシャルが彼の行動を制す。そして老神官の肩を軽く押し、彼をルーベに預けた。
「シャル……」
「わかってる。彼女は多分敵じゃない。でも万が一ってことがあるからね。」
 シャーリルはそのまま、一直線に彼女の元へ進んだ。何が何だか理解できず、完全に思考がストップしてしまっているであろう少女の元へ。シャーリルもまた彼女が敵ではない、と確信していた。ただ一つ、ほぼ確信である疑問を解決する為に。
 彼女の前まで来ると、彼女と視線を合わせるために屈み、彼女に微笑みかけた。それは世の女性を虜にするには十分な威力を発揮する美しい笑みだった。直視した花音も薄っすらと頬を赤らめる。
 絶世の美形に微笑みかけられれば、どのような状況であれ照れてしまうのだろう。花音はどこか冷静にこの状況に身を置いていた。否、正確に言えば混乱しきってしまい、脳の機能がほとんど麻痺をしてしまっているのだが。
「こんにちは」
「こ、こんにちは?」
 言葉は通じるようである。ただ、激しい混乱の渦の中に入る、という事ははっきりしている。
「ちょっと失礼」
 シャーリルはそういうと、白魚の如き手に紅蓮の炎を、彼女を傷つけるために放とうと思った炎を宿らせようとしたが、炎は彼の手にともる事はなかった。存在する四人人のレイターの中でも最強と言う名をほしいままにしているシャーリルの術が効かないどころか、効果さえ発揮しない。シェラルフィールドに人間ならば、彼女が『どのような恐るべき術を施したのか!』と恐怖する所であるが、その現象が彼の疑問を核心に変える。
 きょとんとした表情で彼を見つめる少女はの瞳は、やはり不安の色は隠せない。
「ルーベ……」
 すっと立ち上がったシャーリルは振り返りもせず、主の名を呼んだ。
「何だ?」
「この子から、一切魔力を感じられない」
「……何だって?」
「お前も気付いてるだろう。魔力の気配が一切彼女から感じられないことを」
 シャーリルは静かに、静かに言葉を紡いだ。驚くほど無機質な声に、花音の不安はあおられる。
「だけど、シャル……」
「レイターの僕が、ましてや騎士団長のお前が、本気になって気配を探って一切見つからないってどういうことか、わかるだろう?」
 わからない、と花音は内心で呟いていた。全く状況がわからないのである。できるなら、詳細を聞きたいのだが今はどうやら向こうの三人のほうが立て込んでいる状況下にあるらしい。彼女は口を噤み、彼らの会話から何かヒントを得ようと試みた。
「『鍵』だ」
「……まさか」
「まさかじゃないよ。いや、まさかだけど。まさかこの代に『鍵』が現れる何て思ってもみなかったけど」
 シャーリルの瑠璃色の双眸はどこか虚ろになり、そのまま桜貝のような美しい口唇が音を紡ぐ。
「歴史が、動いた」
 彼はゆっくりとルーベの方向へと身体を動かした。その動作にあわせて、採光から入り込む光が、彼の長く美しい漆黒の髪を艶やかに照らす。シャーリルは真顔で彼の瞳を貫いた。大抵の人物はその瞳に射抜かれたら萎縮してしまうものである。
 だが、その酷く真剣な瞳はルーベをただ言葉をつぐんだ。男性とは思えないほど澄んだ美しい声で彼ははっきりと言う。
「お前も知っているだろう? かの英雄帝が残した伝説を、このシレスティア帝国 設立の覇業に加担した異世界の少年の話を。魔力を持たず、魔力を全て無に帰してしまうと言われた、次なる王となる者への『鍵』のことを」
「知ってるさ。寝物語に何度も聞いた。英雄帝だけじゃねえ。歴史が動くときに現れる『鍵』の存在を知らねぇ奴のほうが少ねぇだろう?」
「だったら、現実を見ろ」
 美貌のレイターははっきりと言った。
「『鍵』は魔力が一切ない。そして、魔力を打ち消す力を持っている。彼女はこの二つが当てはまる。間違いないよ、彼女は『鍵』だ」
 普段のルーベであれば、シャーリルの物言いは短慮だと窘めているところである。だが実際に、この目で見てしまったのだ。
 それを脳が認識した瞬間彼と、老神官の顔色が変わった。シャーリルは再び少女のほうを向き、すっと彼女と目線を合わせた。
「ご無礼を、お許し下さい」
 少女は呆然としたまま、大陸一の美貌を誇ると誉れも高い人物の顔を凝視した。
「初めまして。僕の名前は、レイター・シャーリル・フィアラート。向こうに立っているのはルーベ・フィルディロット・ライザード。このシンシティア帝国の皇帝陛下の弟君であらせられます」
 ますます花音は困惑の表情を強める。
「以後、お見知りおきを」
 そう柔らかな微笑を浮べられても今の彼女は答える事も、わずかな反応を返す事も出来ない。眼前の美貌を誇る恐らく男性であろう人物の言った名前も国の名前も全く聞き覚えがない。その理由は今までの会話から推測すると簡単に導き出せる。故に、彼女も確信する、というよりも確信せざるを得ない。
 こうして、花音の全力否定した結果が、彼女の否定を無視する形で現実味を帯びていく。これはもう花音の住まう二十一世紀現在絶滅された設定といわれても過言ではない。だが、真顔で進むこの展開は、正にそれである。
「つかぬことを……お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 やんわりと質問の許可をもらえた花音は、意を決した表情で眼前にある人物をきっとした表情で見つめて、お約束の言葉を紡いでみた。
「……ここは、太陽系第三惑星地球……ではないですね?」
「それが貴方がいらした国の名ですか?」
 断定系で花音の問うた答えは明らかに『是』 ここは地球ではないという事実に、地球上のどこかという一抹の希望が無残に霧散する。否定した事実が肯定された現実に変わる瞬間、彼女の意識は遠のいた。『ここは異世界である』と、正確かつ決して認めたくない事実が彼女の意識を強制終了させようとしているのである。無残な現実に帰還したくない、というのが今の花音の本音であった。

 ……それは無理もない話であるが。


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