1.呼ばれた声の先に


春は暖かくなってきたので変質者が増えるから気をつけましょう、夏は熱いから変質者が増えるから気をつけましょう、秋は涼しくなってきたので変質者が増えるから気をつけましょう、冬は寒いので変質者が増えるから気をつけましょう。
 標語のように彼女、桜木花音(さくらぎかのん)が通う私立陽宮高等学校女子部(ひのみやこうとうがっこうじょしぶ)ではそう教師達が生徒に告げる。要約すれば春夏秋冬変質者が出やすい昨今、気をつけなさい、という事なのだが遭遇してしまうのは決して彼女のせいではない。
 係わりあいにならないのが一番いいと彼女は平静を装いつつ、相手を伺っていた。彼女は元々フランス人である祖母を持っているため、一般的日本人よりも遥かに薄い栗色の髪を持っている。そして決して黒ではない琥珀色の双眸を持っていた。また、身長も平均的日本人よりも背が高く、体のバランスも取れている美少女である。
 故に、と言うのも妙な話であるが、変質者と遭遇する確率は他の同世代の同性よりも必然的に多い。だから安易に驚くこともないのであるが、眼前に立つ真夏の最高気温が三十度を越える、うだるような暑い日なの。全身を隙なく黒で多い尽くしているような人間が出てくれば、ありとあらゆる意味で恐怖心は煽られる。
 しかし、黒衣の人物は異質だった。まるで暑さを感じている風には見えなかった。彼の立っている場所は、まるでそこだけ別の次元のように彼女は思えた。その人物の分だけ切り取られた、と言っても過言ではない。
 虚空を向いていた顔が、ゆっくりと花音のほうに向けられる。それを見た花音の背筋にはこの暑い中、冷たい汗が流れ落ちていた。本能的に、目先の不審者に対して脳内で警鐘が鳴り響いた花音は、くるりと進路を変えて再び歩き出した。


 何してんだよ?
 ほら、早く早く、ここにおいで


 この時、花音の脳内には声が響いていた。これは時折花音の脳内に響く、酷く柔らかな声だった。ある時はぼやけて、ある時ははっきりと。忘れた頃に届く誰かの声を彼女は今まで深く考えたことはなかった。
 だが今、脳裏で響く声は今まで聞いた中で一番大きく響く。なぜこのような時にと思いながら、彼女は脳裏に反芻する声を振り払うように頭を軽く振る。その動作にあわせて長い淡い栗色の髪が揺れた。そんな彼女を黒衣をまとった男はクスリと笑い、薔薇の如く赤い赫い口唇を動かした。
「聞こえているのであろう。汝もまた『鍵』であるのならば。かの同胞の呼び声に、答えなければなるまいよ」
「え?」
 彼女はハッとして、思わず身を翻して黒衣の人物の方を見た。黒衣の者は、確実に花音が誰にも話したことの無い自分を呼びかける声を知っている。理由は分からないが、確実に。自分の心臓の音が早まっているのが、いやでも分かる。
「貴方は……誰? 何者なの?」
 今度は慎重に彼女が言葉を紡ぐか、彼は答えない。その問いに対して黒衣の人物は、紅色の唇を微笑の形に吊り上げて見せるだけだった。その笑みに、花音は薄ら寒いものを感じた彼女は、片手で持っていた革鞄を握り締めた。いつの間にか彼女達の周囲に人は居なかった。人通りが決して少なくない公道に、車の通りもなく、また人も無い。
 それすら気にも留められない彼女は、金縛りにあったかのように動けずに彼を見ていた。間近で見れば見るほど、現実離れした美貌を持つ黒衣の人物は言葉を紡ぐ。
「七七七の夜が移ろう前に、我等が王のご加護が消え失せぬ前に。汝が『鍵』であるならば、別れた同胞の招く所へ赴くがよい」
「え……?」
 言っている意味がわからない、と思っても花音は言葉を紡ぐ事が出来ない。黒衣の人物は紅色の口唇は微笑む。
「決して拒絶は赦されぬ」
 細い、白い手が花音の方へ伸ばされる。
「汝が、彼の者の声を聞く者であるならば……」
 黒衣の者の声は、花音の脳裏で反芻し、彼女はこれ以上何を考える事も出来なくなった。一種の催眠かもしれない、誘拐されるかもしれない、消えかけた意識下で彼女は思ったけれど、もう抗えない。
「我が誘ってくれよう、新たなる王となる者の元へ。それが古よりの我の務め。行くがいい、もう一人の鍵よ。汝が鍵であるが故に、鍵を欲する者の元へ。」
 それが花音が聞いた最後の言葉だった。まるで漣のような黒衣の人物の声が、今度は泡沫のように消えた。真夏の蜃気楼のようにゆらりと現れた扉が開き、そこから眩い光が溢れた。
 

 早くここにおいで
 ずっと、待っていたんだ
 君を、君だけを


 優しく紡がれる低く柔らかな声が、まるで彼女の身体を包み込むように響き渡る。やっと、彼に応えられると思えると、花音は言いようの無い喜びを感じる。この時彼女は、この喜びの原因がわからなかった。にもかかわらず、この感情に身をゆだねてしまったのだ。
 

 やっときてくれるんだな。
 ……ありがとう

 ……彼女がが覚えていたのはここまでであった。感謝の言葉を聞いた花音は、ほっとして体の力を抜いた。……否、彼女は意識を手放した。


 空は青々と晴れ渡り、わずかに吹く風には夏特有の湿り気と熱を含んでいた。恐らく人が瞬きをする時間程度だろうか、その刹那の瞬間の家に黒衣の人物も、扉も、花音さえも、何もかもが消えてしまった。残ったのは雨上がりのいつもの町の日常風景。
 そこには絶っていた人通りと、アスファルトを疾走する車の機械音が響いていて、喧騒とした雰囲気を醸し出していた。車が通って、水飛沫が跳ねた後の水溜りだけが、ゆらゆらと青い空を映し出しながら揺れていた。蝉は特有の音を奏でながら、盛大に鳴く。
 それ以外は何もかも、そのままで。刹那の前まであった出来事が夏の見せた幻のようだった。


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